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かつて小紙に連載された井上靖の小説「氷壁」は、世に登山ブームを巻き起こした。読まれた方もおられようが、主人公の勤め先の上司が、なかなか味わい深い。穂高岳の氷壁をめざす部下を案じて言う▼「登山家というものも、いい加減なところでやめないと、いつかは生命を棄(す)てることになると思うんだ。危険な場所へ自分をさらすんだからね。確率の上から言ったって、そういうことになる」。時は流れて、今なら「危険な場所」の最たるものは8千メートルを超す山々だろう▼酸素は平地の3分の1しかない。「死の地帯」と呼ばれ、自然が人間を拒絶している場所だ。世界に8千メートル峰は14座あるが、すべて登った日本人はまだいない。10座目に挑んでいた名古屋の田辺治さん(49)が先月、ヒマラヤで遭難した▼登山に限らず、知名度と実力とがイコールでないことはままある。田辺さんは逆に、広く知られた人ではなかったが実力は指折りだった。世界的な難峰や難ルートにいくつも足跡を残してきた▼謙虚な人柄でもあった。6年前、やはり10座目に、やはり49歳で落命した群馬の名塚秀二(なづか・ひでじ)さんの「偲(しの)ぶ会」で会ったことがある。「登山には拍手も喝采もない。そこがいいんです」と言っていたのが印象深い。淡々とひたむきだったその姿が、大雪崩に消えた▼14座の完登者は世界で20人余を数える。日本では12座の竹内洋岳(ひろたか)さん(39)が最も近い。一流の登山家ほど「命知らず」の行動から遠いものだ。「氷壁」の上司の老婆心は胸に封じつつ、だれであれ無事の達成を祈る。