大学の単位が足りなくなり、新聞社からもらった就職の内定を取り消されてしまう夢を昔はよく見た。「優」がほとんどなかった哲学科の学生だったから現実味もあった。そんな劣等生にも、知的興奮を味わわせてくれる哲学の本である▼米ハーバード大学で史上最多の履修者数を記録しているマイケル・サンデル教授の「これからの『正義』の話をしよう」。日本でも三十万部を超えるベストセラーだ▼哲学者の思想を分かりやすく解説しているのではない。現実の社会の中で「正義」を考える手掛かりに、アリストテレスやカントらの哲学概念を使う。そんなイメージだろうか▼「漂流したボートで三人を救うため、一人を殺すことは許されるのか」「金持ちに高い税金を課し、貧しい人に再配分することは公正か」「前の世代の過ちについて、今の世代に償いの義務はあるのか」。対話型の講義で繰り出される問いは難題ばかりだ▼先月末、東大・安田講堂で行った特別授業は千人の聴講者で満席となった。「イチロー選手の年俸はフェアか」という身近な話題から「米国のオバマ大統領は広島・長崎の原爆投下を謝罪すべきか」という道徳責任まで議論が深まった▼教授が訴えたいのは、哲学は私たちの日常生活から遊離した「机上の空論」ではないということだろう。それを実感するだけでも著作を読む意味がある。