賛否の意見渦巻く中、大相撲名古屋場所が幕を開ける。苦悩の場所を支えるものはファンの声に違いない。日本相撲協会と力士らは一層の自戒は無論、相撲を取れるありがたさをかみしめてほしい。
異例中の異例の場所である。約八十年、ラジオ時代の戦時中さえ途切れなかった中継放送が中止になった。土俵を盛り上げる懸賞幕も取りやめが相次ぎ、呼び出しの背中にスポンサーの名前はない。そして千秋楽の晴れ舞台、全力士の目標である天皇賜杯の授与もない。ないないづくしのようではあるが、これほどファンの真情が肌身にしみる場所もないだろう。
三年前の力士暴行死以降、大麻事件、朝青龍の暴行疑惑、暴力団との関係など、角界をめぐる不祥事が頻発し、相撲界の閉鎖性や独善性の弊害は再三指摘されてきた。それでも一向に改められなかったのは「国技」と呼ばれる、甘えの体質と無縁ではないはずだ。
そのために、背後で真に大相撲を支えてくれる無数、声なきファンの存在をついつい忘れることはなかったか。
特に暴力団との関係については、警察の捜査が進んでいる。大相撲の伝統と文化、それを守るべき責任の重大さを問えば、場所の中止は当然考慮すべき事態だし、NHKの放送中止の判断も不当とはいえない。しかしその一方で、ファンをこれ以上落胆はさせられないという判断もあるだろう。生中継の復活を求める声もある。名古屋場所を年に一度の楽しみにしている地元のファンもいる。
冷たい視線や怒りの声にさらされる恐れもある。空席が目立つかもしれない。中止より開催の方が厳しい場合もある。だが開催が決まった以上、相撲協会幹部や関係者、力士一人ひとりがファンと向き合い、その厳しさやありがたさをかみしめて、自ら襟をただす契機にすべきではないか。
テレビ桟敷にも思いをはせてもらいたい。入院患者や老人ホームのお年寄り、モンゴルのファンたち。相撲中継を数少ない楽しみに日々を送る人がいる。だから国技と愛されている。その楽しみを奪われた人の心となれば、もう二度と相撲の誇りを傷つけることはできないはずだ。
数々の賞と中継放送の不在。この空白の大きさを深く心に刻み、今年の名古屋場所を大相撲の近代化、正常化への転換点にしてもらいたい。協会は真の反省悔悟を示し、力士は力と技を発揮して。
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