教師の号令で国民学校四年生だった野添憲治さん(75)は、繰り返し叫んだ。「チャンコロのバカヤロー」。縛られて座っている二人の中国人に砂をかけ、つばを吐くと、村人から元気がいいとほめられた▼六十五年前の六月三十日深夜、秋田県の花岡鉱山の河川改修現場で、鹿島組から過酷な労働を強いられた中国人約八百人が抵抗に立ち上がった。戦後に「花岡事件」で知られる一斉決起である▼野添少年が見たのは、この時に山を越えて逃げた人だった。軍国少年だったが加害者ではなかったという信念は崩れ、戦後は現地での聞き取り調査など事実の発掘に傾倒した▼山にこもった中国人は鎮圧され、三日三晩縛られたまま、水も食事も与えられなかった。それ以前に病死や虐待死した中国人も含めると、鹿島組の下で働いた九百八十六人のうち四百十八人が亡くなった▼戦時中、百三十五の事業所に強制連行された中国人は約四万人。死亡者は七千人近くに上る。花岡事件が二〇〇〇年、東京高裁で和解した後、すべての現場を歩こうと野添さんは慰霊と取材の旅を始めた▼九年かけて炭鉱の跡など全国を歩いた。記録も記憶も失われている事業所が多かった。「そんなことを聞いてどうする」と怒る人もいた。時間をかけて丹念に歩くと、問い掛けが聞こえてきたという。<日本人は、何をしなければならないのか>