有罪であることの確認から有罪か無罪かの判定へ−日本の司法文化が変わり始めました。多くの国民が意識を転換して変革の一翼を担いたいものです。
「盆栽の上にかがむような姿勢で剪定(せんてい)し枝ぶりを整える。結果に満足し、鉢から離れて眺めると奇妙な形に見えることがある」−大学教授から最高裁判事に転じた人物が書いた随筆の核心です。
専門家の視野が狭くなりがちなことを自戒し、幅広く多様な視点の必要性を指摘したのです。
別の刑事法学者は有罪率99%という実態をもとに「日本の裁判所は有罪であることを確認するところだ」と嘆きました。
◆検察官が握る起訴権限
刑事法学者の念頭には、有罪率がもっと低く、有罪か無罪かを分けるところとされる欧米の裁判所がありました。
二人の指摘から二つの問題意識が浮かびます。一つは「裁判で無罪になるべき人が無罪になっていないのではないか」です。足利事件のような事例に直面すると、なおさらその感を強くします。
ほかは「有罪になるかもしれない人がもっといるのに起訴されていないのでは」というものです。
日本では疑わしい人を起訴して裁判にかけるかどうかの権限は検察官が握り、原則として検察官の積極的判断がなければ刑事責任を追及できません。その検察官は慎重で、有罪判決が確実と考えられなければ起訴しません。
さらに、有罪の可能性が高くても事情によっては起訴しない権限も検察官にはあり、かなりの人が裁判を受けずにすみます。
「検察官が事実上の裁判官だ」と自著に書いたのは、日本通のオランダ人ジャーナリスト、カレル・ウォルフレン氏です。「検察官司法」という評もあります。
◆改革で壁にあいた風穴
検察の判断と国民意識や被害者感情などが合致していれば、これで問題はありませんが、両者間の乖離(かいり)があまり開くと社会の安定が揺らぎます。
犠牲者五百二十人を出した日航ジャンボ機の整備ミス、共産党幹部宅の電話盗聴、金丸信・元自民党副総裁の政治資金ばらまき…不起訴決定に世論が激しく反発した例はたくさんありました。
市民代表による検察審査会が証拠を調べ、起訴すべしと議決しても、強制力がなかったのです。
司法改革はその壁に風穴をあけました。審査会が「起訴相当」と二回議決すれば強制的に起訴されることになったからです。
今年一月には、兵庫県明石市の花火大会における歩道橋事故(二〇〇一年)に関し元警察副署長が強制起訴されることが決まりました。続いて三月には、〇五年の尼崎JR脱線事故をめぐりJR西日本の歴代三社長の強制起訴も議決されました。
裁判に市民感覚を反映させるための裁判員制度は既に順調に機能しています。戦前・戦中に行われた、市民だけの陪審裁判では無罪率が職業裁判官より高かったので、裁判員の参加で日本の裁判所も「有罪か無罪かを判定するところ」に変わるかもしれません。
それに加えて、市民が起訴するシステムが動きだしたのです。専門家任せだった日本の司法文化は大きく変容するでしょう。
欧米では「有罪の見込みが51%あれば起訴せよ」と言われるほどです。捜査機関という密室で事件に終止符を打つのではなく、開かれた場である法廷で決着をつけるべきだとの考えからです。そのかわり無罪になる率は高く、40%に達することもあるといわれます。
日本の検察が起訴を絞るのは、起訴された被告人の負担がとても重いからでもあります。心労、仕事や社会生活への支障、弁護料その他の経済的負担…無罪になっても取り返しはつきません。
市民感覚の反映で起訴の幅を広げるだけでなく、被告人の負担を軽くする工夫が必要です。
市民感覚による起訴であっても直ちに有罪と決めつけず、有罪か否かは証拠と法に基づき厳密に判断すべきです。被害者感情を生のまま反映させるのは危険です。
強制起訴しても無罪になることもあるでしょう。有罪判決が確定するまではあくまでも被告人を無罪として扱うよう、意識転換しなければなりません。
◆統治主体者の重い責任
正義はあらかじめ決まっているもの、あるいは誰かに決めてもらうものと考えがちですが、自分たちで決めることが憲法の大原則である「国民主権」にかないます。
どんな社会をつくり上げるか、私たちには統治主体者として決める権利と重い責任があります。司法における正義を判断し実現する責任を担うのもそのためです。
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