HTTP/1.0 200 OK Server: Apache/2 Content-Length: 21678 Content-Type: text/html ETag: "3f8907-54ae-58ff8c40" Cache-Control: max-age=5 Expires: Fri, 02 Apr 2010 20:21:07 GMT Date: Fri, 02 Apr 2010 20:21:02 GMT Connection: close asahi.com(朝日新聞社):社説
現在位置:
  1. asahi.com
  2. 社説

社説

Astandなら過去の朝日新聞社説が最大3か月分ご覧になれます。(詳しくはこちら)

新卒未就職―あの手この手で助太刀を

 年度初めの入社式のニュースを見ながら、悲しい思いに沈む若者が多かったに違いない。彼らのために何ができるか、社会全体で考えたい。

 厚生労働省が集計した就職内定率は大学生が2月の時点で80%、高校生は1月時点で81%だった。今なお多くの新卒者が就職先を見つけられないでいる。景気に明るさが出てきたが、企業の採用は来春も厳しそうだ。

 就職につまずいてさまよう「ロストジェネレーション」とも呼ばれる若者層が厚くなる不幸は、本人たちにとってばかりではない。

 将来の社会保障の負担が重くなる。働き手が技術を身につける機会を失うことで、日本経済の弱体化につながる。雇用の機会を広げないと、社会の損失は大きくなるばかりだ。

 企業が雇用を増やすことや、景気回復を促す政策はいうまでもなく大切だが、ほかにもいろいろな手立てを工夫できる。

 未就職の若者たちに職業訓練の場を提供したり、求職者が仕事を見つけやすくしたりする努力が政府や自治体、企業に求められる。

 中堅・中小企業にとっては、人材を確保する好機でもある。実際に採用意欲のあるところも少なくない。だが、若者たちの就職希望は大企業に集中しがちで、学生が中小企業と出会う機会は不十分だ。

 企業側は合同説明会などで求人情報をもっと積極的に発信し、公的機関もそれを後押ししてほしい。

 若者が企業を理解する機会を広げることも必要だ。実際に職場を体験してもらおうと、政府は新卒未就職者向けに中小企業での研修事業を始める。希望者は半年かけて技能を習得するという。良い試みだ。

 企業の現場で経験を積むことは、本人にも社会にも有意義である。受け入れ先の開拓に政府や自治体、経済界は本気で取り組んでもらいたい。

 職業訓練も強化したい。新卒未就職者のため、パソコンや介護職などの無料講座が用意された。世帯収入が低い人には訓練中の生活費も出る。

 大学や高校には、卒業生にも息長く就職相談に応じて支援する態勢を整えるよう望みたい。

 さらに進めるべきは、大企業が実施してきた新卒一括採用という方式の見直しである。日本学術会議の分科会が、大学生を卒業後3年間は新卒と同様に扱うよう提案した。だが、新卒以外の若者が「既卒」として不利に扱われる現状を抜本的に改善する道を考える時ではあるまいか。

 経済界では新卒一括採用を改め、通年採用に切り替えようとの声もあがっているが、踏み切る企業は少ない。大企業には、適時適材の採用に切り替える具体的行動を期待したい。

なり代わり投票―厳粛な信託を忘れたか

 風上にもおけない、とはこのことをいう。

 自民党の若林正俊元農林水産相が参院本会議での採決で、隣席の同僚である青木幹雄議員の投票ボタンを本人になり代わって押した。「魔がさした」ではすまない不行跡であり、議員辞職したのは当然である。

 国会議員は憲法で「全国民の代表」と位置づけられている。法律を定め、国家財政を統制し、首相を指名する。その重責を自由で独立した立場で果たせるよう、様々な特権も与えられる。議院での表決や発言は院外で責任を問われない、というのもその一つだ。

 それほど重い一票を青木氏になり代わって行使したのは、2004年参院選で青木氏に投票した25万人の地元有権者への裏切りというにとどまらず、「全国民」に対する背信行為である。取り返しがつかない。

 押しボタン投票は、長年の参院改革論議を踏まえて導入された仕組みだ。議員一人ひとりの投票行動をきちんと記録し、情報公開することを通じて、その政治責任を明確にすることをめざした制度である。

 「なり代わり」投票は、その趣旨を土足で踏みにじる行為であり、参院の自殺行為といっても過言ではない。

 今回の不祥事は、政党のあり方も改めて問い直している。

 若林氏は「深く考えることなく押した」と語ったが、それは青木氏がどう投じるかを分かっていたからである。法案への賛否は通常、党執行部があらかじめ決め、各議員に対し「党議拘束」をかけている。ならば、「なり代わり」投票をしたところで実害はないという感覚だったのだろう。

 しかも、最近の選挙は個々の候補者というよりは政党本位の争いである。二大政党化とマニフェスト選挙の定着がそれに拍車をかける。したがって、政党の規律に服するよう個々の議員に迫る圧力はますます強まる。

 現実の国会議員は、憲法が想定するような自由で独立した「全国民の代表」の姿から遠くなりつつある。

 しかし、それでいいのだろうか。

 政党本位の政治はいいとしても、議員それぞれが熟慮し、判断することを妨げてはいけない。党議拘束に縛られた機械的な採決ばかりではいけない。議員相互の自由な「熟議」や、そのうえでの柔軟な法案修正があっていい。

 この問いは民主党にこそ突きつけられている。執行部の締め付けが強く、新人議員は「採決マシン」にすぎないという嘆き節をしばしば聞く。

 夏の参院選に現職の衆院議員をくら替えさせるのも、総選挙を通じた有権者の付託を軽んじる態度である。

 「国政は国民の厳粛な信託による」と憲法はうたう。その本分を忘れるような行いは、もっての外である。

PR情報