水俣病と認定されず、裁判で補償を求め続けた水俣病不知火(しらぬい)患者会が、和解を受け入れた。政治救済はまた進む。だが「水俣病とは何なのか」。また、答えは出なかった。最終決着はまだ先だ。
「時間がない」。公式確認から五十四年、原告は年老いた。司法による解決を拒み続けた国が、やっと和解を受け入れた。しかし、和解条件はほぼ国の主張に沿った内容だ。心からの笑顔はない。
一九七七年に国が厳格な認定基準を示し、約三千人に慰謝料や療養手当を支給した。基準を満たさない被害者が次々に訴訟を起こし、九五年、時の村山内閣は、未認定のままで一時金などを支払う「政治決着」を試みた。だが、関西訴訟の原告団はこれをいれずに訴訟を継続、最高裁は二〇〇四年、被害拡大に関する国の責任を認め、行政よりも緩やかな認定基準を判示した。このため、新たな認定申請者が急増し、新たな未認定問題が持ち上がる。不知火患者会が提訴したのも〇五年のことだった。
そこで、前政権は「第二の政治決着」の動きに出る。昨年七月に成立した水俣病特措法による解決だ。水俣病患者としてはまたも未認定のまま、司法判断に近い形で一時金による“救済”を図り、一時金捻出(ねんしゅつ)のために、原因企業チッソの分社化、会社清算の道をひらいて、幕引きを図ろうとした。
和解による“救済”は特措法に準じて進む。被害地域や年度の拡大は認められず、また新たに被害者の線引きがなされただけだ。
水俣病は患者の健康だけでなく、不知火海沿岸の地域を引き裂いた。風評を逃れて患者は全国に散らばった。未認定患者は約四万人ともいわれている。名乗り出られない患者は、まだ多い。母親の胎内で重い被害を受けた、物言えぬ胎児性患者も年を重ねている。
時とともに、また新たな患者は名乗り出る。線引きでは決着し得ない問題なのだ。時間や場所にとらわれず、新たに水俣病と診断されれば患者として救われる仕組みを整えてこそ「恒久解決」といえるだろう。それには、まず沿岸住民の詳細な健康調査を実施して、水俣病とはどんな病気か、医学的に確定させる必要がある。驚くべきことに、水俣病の正体は、未解明なのである。
「水俣病とは何か」。この問いに答えを出さない限り、解決はない。患者に安堵(あんど)は訪れない。公害の原点から目をそらしたままで、環境立国への道もひらけない。
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