男の子は、ただならぬ気配を感じて、波打ち際から離れていた。だが友達は彼の目の前で、大波にのまれてさらわれていく。立ちすくんでいると波が再び迫り、波頭に浮かんだ友達がこちらに腕を差し出して、ニヤリと笑いかける……。
▼村上春樹氏の短編「七番目の男」は、海の大波の描写が恐ろしい。想像を超えた異次元の力が、波の姿を借りて人間に忍び寄り、大切なものを運び去ってしまう。前日まで穏やかだった恵みの海が、ふと気がつくと全くの別物に化けている。日本列島に打ち寄せた津波は、そんな海の二面性を人々に思い出させた。
▼津波は孤独な怪物だ。物理学で「ソリトン(孤立波)」と呼ばれる種類の波動である。他の波とぶつかっても、混じりあうことなく、力が衰えることもなく、ひとり黙々と進み続ける。チリから地球を半周。日本を目指し、ジェット機並みの速度でやって来た。風に揺らぐ海面の波をいくつ追い越したことだろう。
▼画面に映り続ける静かな港の光景が不気味だった。住民にとっては、いつ襲ってくるとも知れぬ怪物を待つ時間こそが恐怖であろう。小説の主人公は友人を失った自責から40年後に解放されて、こう語る。「何よりも怖いのはその恐怖に背中を向け、目を閉じてしまうことです」。ほっとしてばかりもいられない。