今回もさまざまな問題が透けて見えた。オリンピックはどうなっていくのか。このままでいいのだろうか。バンクーバーの聖火が消えたところで、あらためて問い直すべきではないか。
バンクーバー冬季五輪は二十八日(日本時間一日)、熱戦を終えて幕を閉じる。雪と氷を舞台とした至高の大会は、今回も素晴らしい思い出を残してくれた。オリンピックの魅力を存分に味わえた十七日間だった。
が、大会運営の面ではいくつかの深刻な問題に直面した。ひとつは暖冬による雪不足である。会場によっては、開幕直前に近くの山から雪を運ぶありさまだった。温暖化の影が冬季五輪にも迫ってきたということだ。
世界的な金融危機の影響も避けられなかった。スポンサー収入の減少などで組織委員会は厳しいやりくりを余儀なくされたようだ。そうした状況が運営面で相次いだトラブルの一因ともなっているのではないかとの見方もある。
ますます巨大になり、それに伴って開催費用や警備態勢が膨らみ続けている五輪。今後、環境面や不透明な経済情勢とどう折り合いをつけていくのか。視界不良の将来が、今回は雪不足や資金面の不安という形で姿を現したのだ。巨大な存在ゆえの難問はほかにも数多い。そしてこれらはそのまま、オリンピックのあり方そのものをどう考えていくかという根本的な問いへとつながっていく。
大会ごとに参加国数や実施種目数が史上最高を更新していく拡大路線。マーケティングの進化に後押しされて、五輪はひたすら大きく、華やかになってきた。ただ、その方向がもたらすゆがみやひずみも拡大している。夏季など大国の大都市でなければ開催できない状況に陥っているのもそのひとつだ。また、今回リュージュで起きた死亡事故には、より華やかにショーアップするための高速化が影を落としていたようにも思える。
これほどの規模や豪華さが本当に必要なのか。もっと質素で素朴な大会ではいけないのか。それでも五輪はいままでと同じように愛され続けるのではないか。根本的に発想を転換すべき時期が来ているのではないか。
古い童話に、体を大きく膨らませるカエルの話があった。これでもか、これでもかと体を膨らませていった結果、パチンと破裂してしまうのだ。オリンピックの現状には、ふとそれを思い出させるところがある。
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