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【社説】

週のはじめに考える 最高裁は変わるのか

2010年2月21日

 刑事裁判は裁判員裁判の導入で着実に市民の側に近づきました。最高裁の判断にも少しずつ変化を感じます。最近の司法判断から考えてみましょう。

 裁判員裁判は市民の常識を法廷に、というキャッチフレーズで始まりました。最高裁が「一般人の評価」また「一般人から見て」という市民の常識を強く持ち出した大法廷判決が先月ありました。

 北海道砂川市が市有地を神社に無償提供しているのは、憲法にいう政教分離原則に反しており違憲であるという判断でした。

◆退けられる下級審判断

 それまで最高裁は、社会通念は持ち出しても、神社、神道は日本の伝統的習俗によくなじんでいることに重きを置き、下級審で違憲が出たケースの大半を合憲と退けてきました。地鎮祭への公費支出や忠魂碑の宗教性をめぐる訴訟がそれです。

 宗教をめぐっては、かつて印象的な判決がありました。一九八八年の自衛官合祀(ごうし)訴訟の大法廷判決で、当時もそうでしたが、今考えればなおさら難しいものでした。

 訴訟は、殉職自衛官の夫を自己の信仰に反して山口県護国神社に合祀されたキリスト教信者の女性が、自衛隊関連組織などによる合祀は政教分離原則に反し、それにより宗教的自由も侵害されたという内容でした。

 一、二審とも「(この合祀は)親しい者の死について静謐(せいひつ)な環境の中で考えることを侵害する」と女性の訴えを認めましたが、大法廷は合祀は宗教的活動とまでは言えないなどとしてあっさりと退けたのです。

 今ならどうでしょう。当時も憲法学者らが強く批判したほどですから覆るかもしれませんし、信教の自由という個人の権利はもっと擁護されるはずです。

◆少数派を守るとりでに

 最高裁は憲法の番人と言われますが、人権のとりでという呼び方もされます。三権のうち立法や行政は現実的判断から往々にして多数派を重視することになりがちですが、司法は憲法に基づいてむしろ少数派を守るべきとりでたれ、ということです。

 その憲法の番人の過ちとして、よく憲法の教科書が、すべての国民の平等を定めた憲法一四条の違反事例に挙げているのが尊属殺人重罰規定でした。親殺しの罪は無期または死刑で、有期三年以上の通常殺人より罪が重いという、今考えれば明らかな違憲内容が堂々と法律に記されていたわけです。憲法施行間もないころ、これが争われ大法廷は親子関係は憲法条文が差別を禁じる「社会的身分」でなく道徳上の関係だという“理屈”で合憲としました。

 以来、最高裁がこれを違憲とし実質的に消え去るまで実に二十年以上を要したのです。

 司法は時代とともに変わるものです。もう少し言えば、時代の変動に押し流されず、しかし時代には遅れず、といったところでしょうか。これに従えば尊属殺人規定のケースは明らかに遅れており、怠慢のそしりを免れないでしょう。違憲判断の出た事件の被告は実父に夫婦同然の関係を強いられた娘さんで、重罰規定では無理だった執行猶予判決を得ました。

 最高裁判決ではありませんが、「一票の格差」裁判で広島高裁が先月違憲判決を出しました。昨年の歴史的政権交代となった衆院選についてで、二倍を超える格差は容認できないという判断でした。昨年暮れの大阪高裁に続き憲法の平等原則に反するというのです。

 大阪高裁の判決は、有権者は小選挙区では投票で政治情勢が大きく変わるのを目の当たりにし、格差二倍は大多数の国民の視点から耐え難い不平等と感じていると述べています。最高裁が衆院選では約三倍、参院選では約六倍までを合憲としてきたことに比べ、もちろん明快です。

 政権交代が起きる時代に投票価値に大きな隔たりがあるようでは民主政治に疑義が出かねません。司法は国会に対し厳しい忠告をすべきですし、もしそうでないのなら良き緊張関係を保つべき三権分立は機能しません。

◆政治と並ぶ公共の柱に

 二〇〇一年、司法制度改革審議会が新世紀の司法は政治とともに公共をつくる柱であると指摘しました。在外邦人に選挙権を制限しているのは違憲とした判決、行政訴訟の原告適格を拡大した小田急高架訴訟判決など国民の立場からも考える判断が出ているのは、歓迎すべきだというより、当然というべきでしょう。これまでが私たちから遠すぎたのです。

 最近、最高裁が変わったかもしれないという声を聞きます。そういう印象はあります。しかし、変わったと言えるのかはもう少し先にしましょう。国民の多くが「憲法の番人」はたしかにいると思えるようになる日までです。

 

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