吾輩(わがはい)は猫のたま。和歌山電鉄貴志駅の駅長である。担当は「客招き」…。地方の公共交通はどこもかしこも経営難だ。いつまでも、自治体の財政支援や「猫の手」に頼ってばかりはいられない。
フランスでは国内交通基本法で、誰もが低コストで快適に移動できる権利として「交通権」が保障されている。欧米ではこうした権利に基づいて、道路を選ぶか、鉄道にするかの選択権や、そこにどれだけ税金を投入するかの裁量権が、自治体に広く認められている。一九九〇年代以降、住民投票による路面電車復活が相次いだのもそのためだ。
国内では、名古屋市内を走る第三セクター鉄道の「リニモ」と「あおなみ線」に対し、愛知県と市から大規模な財政支援の表明が相次いだ。経営再建には沿線開発が不可欠という。だが、アメリカ西部開拓以来のこの定石は、もはや時代遅れである。地方鉄道の経営難は首都圏でも同様で、千葉県の銚子電鉄は、ぬれせんべい販売の副業で名を売った。が、急場しのぎの感は否めない。
化石燃料はやがて底をつく。低炭素社会に向けて、特に都市部で電車の重みが増すはずだ。東京都内でも路面電車の復活を求める声は少なくない。鉄道という資産を生かしたまちの再デザインが、日本でも必要な時代になった。富山市で二〇〇六年に開業した次世代型路面電車の「富山ライトレール(ポートラム)」はその先駆けだ。
“平成の大合併”で富山市は広くなりすぎた。市街地が分散すればするほど、自動車依存は進み、エネルギー消費はかさんで行政コストも高くなる。富山では、沿線開発より先に「脱クルマ依存」というまちづくりのテーマが先にある。新線をどう生かし、既存の鉄道やバス路線とどのようにつないでいけば脱クルマ依存の豊かな暮らしが成り立つか。原点から市民とともに考えた。だから、利用者側にも、ポートラムは自らの「足」、自分たちで守り育てるべきものとの自覚ができつつある。
日本では「官有鉄道」の残り香か、電車には「乗せてもらうもの」という気持ちがまだ強い。だが仮に、欧米のように交通手段の選択権や裁量権が自治体に移譲されれば、住民のコスト意識も育つ。公共交通の地域主権を確立し、選択や運行に市民が参画できる仕組みをつくって、まず気持ちを切り替えないと、いくら官費を投入しても、地域に線路は根付かない。
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