文明開化の香りたっぷり啓蒙(けいもう)思想を鼓吹した「明六雑誌」が明治7年、相撲をやり玉にあげて書いた。「智をたたかわせるのではなく、力をたたかわす獣類のすることです。それを見て楽しむ者も、また人類のすることとは言いがたい」
▼湯本豪一氏の「明治ものの流行事典」が紹介する話である。獣類のたたかい。いや、蛇ににらまれた蛙(かえる)としかいえないような場面を5年前、国技館で見た。名前を出してもいいだろう。蛙は当時の関脇雅山、蛇はもちろん横綱朝青龍だ。おびえた目の雅山を見れば、誰にだって相手の恐ろしさがびんびん伝わった。
▼格闘に獣性は欠かせない。しかし、思えば朝青龍は最後まで自らの獣性をコントロールできなかったのか。希代の能力ゆえ土俵が抜群に面白くなったと認めよう。高校生で来日して以来、人知れぬ苦労があったこと、今回の騒動が角界全体の体質と無縁でないことも認めよう。それでも、朝青龍に同情はできない。
▼明治初年にあんなふうにたたかれた相撲が今も存続する理由を考える。じつは、「五常」といわれる仁義礼智信を重んじていたからだ。それがないものねだりと思われているとしたら、そのことの方が問題である。強ければいい。そんな意見には、それは相撲でない、別にいくらも格闘技があると答えるしかない。