「事実というのは袋のようなもので、何かを入れなければ立ってはいない」とは、英国の歴史家E・H・カーが著書「歴史とは何か」に引いている言葉だ。袋に「何か」を詰め込むことによって事実は歴史になる、という意味であろう。
▼「何か」は歴史認識であり、袋詰めをするのが歴史家である。そう喩(たと)えるのは簡単だが……。日中両国の歴史共同研究委員会が発表した最終報告書は、共同研究といいながら各テーマに関し双方が書いた論文を並べただけという印象だ。公表されるはずだった相手方の論文に対する批評も、知れずじまいになった。
▼「南京事件」は、犠牲者を「30万人余り」とした中国と「20万人を上限に様々な推計がされている」という日本で、事実のとらえ方から違う。天安門事件など戦後史の部分は、中国の求めで論文の発表すら見送られた。初の試みは評価するにしても、研究の名に値する自由があったのか。そんな疑問もわいてくる。
▼歴史を読む場合、最初の関心は事実でなく書いた歴史家に持つべきだ、ともカーは説いている。教えにしたがって報告を読めば、事実に歴史認識を詰め込む中国の歴史家には、どうしたって「政治」の濃いカゲが映る。「歴史は現在と過去との対話である」というカーの名言の、こんな分かりやすい教科書はない。