多分、「特別な物語」と呼んでいいだろう。『ライ麦畑でつかまえて』。一九五一年に米国で出版後、世界各国で翻訳され、発行部数は実に六千万部を超える。今なお、年に二十五万部ほども売れ続けているという▼ユーモラスな口語体で、少年の社会への反抗を描いた青春小説。数年前に新訳を出した作家村上春樹さんが言う通り、それを読むのは、少年期の「通過儀礼」になっていた感さえある。筆者もはるか昔、そこを通った一人▼歌手ジョン・レノン射殺犯やレーガン元大統領銃撃犯が“愛読”していたことでも知られるようだ。しかし、この物語に特別な色彩を与えている最たるものは、やはり、その作者J・D・サリンジャーさんの存在だろう▼同書出版から間もなく隠遁(いんとん)生活へ。極度にプライバシーにこだわり、ある時期以降、公式に撮られた写真もない。ある米紙はやはり公の場から姿を消した伝説の女優になぞらえて<文学のガルボ>と。ファンレターさえ燃やすよう求めていたというから徹底している▼こうした隠遁は、実は『ライ麦畑』の主人公が作中で望んでいたことと重なる。村上さんはそこに<作家が作品をなぞり、登場人物を模倣する傾向>を見る(共著『サリンジャー戦記』)▼その作家が、九十一歳で世を去った。これこそが、この神話的な「物語」の最後のページだったのかもしれない。