お年玉付き年賀はがきの抽選があしたある。届いた賀状にあらためて目を通すのは、少し寝かせたおでんを味わうような楽しみだろう。正月は見落としていたが、じつは、差出人の思いがたっぷりしみ込んだはがきが何通もあるからだ。
▼去年11月の本紙プラスワンで、「賀正」や「迎春」など2文字の賀詞は目上には使わぬものだと初めて知ったことも思い出す。かように書簡は難しい。相手を敬い自分はへりくだる。理屈は承知しても、あて名のわきに「机下」や「侍史」と書き、自分の名には「生」を添えるような芸当は、ほぼ忘れられている。
▼先日、新聞社の所在地をある企業にメールで伝えた。旧知の相手だったので、末尾は筆者の姓に「拝」をつけておいた。「○×拝」という具合である。届いた郵便物には「○×拝様」とあった。あて名はよほど若い人の手だとは思うが、「拝」ももうお蔵に入れる時がきた。その合図ならば、異議ありと言おうか。
▼漱石の手紙を読むと、あて名には「座下」「座右」「尊下」がつき、文末は「匆々(そうそう)頓首」だのズバッと「以上」だのと多彩で面白い。折々にはむろん「拝」も出てくる。いまは絵文字がある、と言われても、さて、文化と呼べるかどうか。不在の「拝様」を探し求めて社内を経めぐった封筒を横目に、複雑である。