十月の生物多様性条約は十回目、年末の気候変動枠組み条約が十六回目。この「二つのCOP(締約国会議)」から、ことしは目が離せません。
昨年暮れ、名古屋の地下鉄でふと耳にした熟年夫婦の会話です。
「だからな、COPには15と10があってな、今(コペンハーゲンで)やってるのは15のCOP。来年名古屋で開かれるのはCOP10なんだって」。身ぶり手ぶりを交えつつ、夫は懸命に説明します。
「で、15と10はどう違うのよ」と妻も興味を示します。すると夫は笑みを浮かべて「15は温暖化対策の会議で今度が十五回目だわ。10は生き物のいのちを守る会議で名古屋がちょうど十回目」。
◆知名度はまだ低いが
COPは、国際条約の「締約国会議」を意味する英語の略称で、固有名詞ではありません。COPにも、いろいろあるわけです。このような、ややこしさも手伝って、百九十カ国から一万人が訪れる重要な会議という割に、COP10の認知度は地元でもいまひとつ。愛知県が昨年末に公表した世論調査の結果では、「生物多様性」という言葉を「知っている」と答えた人は、わずか一割にすぎませんでした。全国的には推して知るべしの現状です。そこで本紙は、COP10に「いきもの地球会議」の愛称をつけました。
「いきもの地球会議」がめざすのは、地球上に生きとし生けるすべてのいのちが、賢く共存し続けていくことです。そのために、猛スピードでこの地球上から消えていく「いきもの」の絶滅速度に歯止めをかけねばなりません。なぜ、絶滅が加速したのか。それは人間の仕業です。乱獲、乱伐、そして工業化の営みによるさまざまな環境変化が、今この瞬間にも、いのちを蝕(むしば)みつつあります。
◆最良のバランスを求めて
人間が引き起こした「いきもの」の消失は、人間自身の暮らしやいのちを脅かし始めています。人は、さまざまないのちを食べねば生きていけません。人は他の「いきもの」とのつながりの中でしか、生きられない存在です。
COP10のテーマは、単純な自然保護ではありません。自然との共生は、人間が未来を生き延びていくための条件でもあるからです。むしろ他の「いきもの」を賢く利用することに、力点が置かれているといえるでしょう。
哲学者の内山節さんは約三十年前から、群馬県南西端の上野村で暮らしています。その中で見つけた「共生」の在り方を、このように語っています。
「村の人たちが生きものを見る目は一様でない。仲間であり、害獣であり、神のお使いだったりする。そのいろんな関係を前提として、今はどんなバランスを保つのが最良なのか、を見出す能力を村の人間はもってきました」(「つながるいのち」)
地球という大きな単位でそのバランスが保てるように、具体的な目標やルールを定めること、それこそが、COP10に課された使命です。成功すれば史上初。一九九七年に温暖化対策の京都議定書を採択した、もう一つの方のCOP3にも匹敵する快挙でしょう。
さて、そのもう一つのCOPです。メキシコで開かれる温暖化対策のCOP16。「いきもの」が、これからも、ともに生き延びていくための重要な節目です。
コペンハーゲンで決めなければならないはずだった「ポスト京都」の新議定書。京都議定書の期限が切れる二〇一三年以降の温暖化対策は、メキシコへ先送りにされました。ここで決まらなければ「いきもの」は破局へ大きく近づきます。
行き詰まりの原因は、相も変わらぬ先進国と途上国のせめぎ合い。とりわけ、世界一の温室効果ガス排出大国に躍り出た中国の無理解と、二位米国の煮え切らぬ態度が大きく影響しています。COPの中の嵐です。
中国は「これからは途上国に排出権を譲るべきだ」と強く主張します。地球を汚す権利など、実はどこにもありません。欧州などでは、会議を決裂寸前に追い込んだ中国への批判が高まりました。中国には予想外の逆風です。温暖化に対して産業構造やライフスタイルが本格的に変わり始める年ともいわれています。事態打開のかぎになるのは国際世論の後押しです。COPの外に嵐が必要です。
◆どんな小さいピースでも
「(地球というジグソーパズルの)どんなに小さいピースが欠けても 世界はその傷口から病んでゆく」。元日の本紙に寄せてもらった谷川俊太郎さんの詩の一節です。考えてみてください。私は、私たちは、パズルのどこに当てはまるのか。この地球に生きとし生けるものとして、二つのCOPに無関係、無関心でいるのは許されないのです。
この記事を印刷する