<急ぎは失敗の母>とヘロドトスは言い、フランスの俚諺(りげん)には曰(いわ)く、<急ぎすぎる者には邪魔が入る>と。<急(せ)いては事を仕損じる>や<急がば回れ>はご存じ、本邦のそれ▼ことわざ辞典の類(たぐい)を繰れば、洋の東西を問わず、これだけの類句がたちどころにみつかる。人間はよほど、急いては事を仕損じてきたと見える。逆に言えば、それだけゆっくりやる、じっくり待つのが苦手な生き物ということ。それは我が身に照らしても分かる▼最近、権威ある英科学誌の出版元から二人の日本人に、「ネイチャーメンター賞」が贈られた。メンターは、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』でオデュッセウスの息子の教育係を任された人物メントルに由来し、優れた研究者を育てた功績を称(たた)える賞だ▼受賞者の一人が日本の分子生物学の開拓者、大沢文夫・名古屋大名誉教授(86)。弟子を育てるこつは「邪魔しないこと」らしい。急がず急かせず、弟子が自ら動きだすのを待つのが大沢流だ▼まさに<急がば回れ>だが、早く結果を、と焦るのが人の性(さが)。それに逆らうのだから実は一番難しいことだろう。研究者や学生を自由に“放牧”するスタイルから、研究室は「大沢牧場」と呼ばれたそうだ▼何であれ「急ぐ」とどうしても汲々(きゅうきゅう)としてくる。だが、「急がない」の先には、広々、伸び伸びとした世界が広がっているらしい。