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【社説】

週のはじめに考える 天才そして強烈な努力

2009年11月29日

 即位二十年の記者会見で天皇陛下が「若い息吹」と表現されたように囲碁界に平成生まれの名人が誕生しました。新時代到来の期待が高まっています。

 この十月、名人戦七番勝負を四勝一敗で制し、名人位を獲得したのは井山裕太八段。平成元年五月二十四日生まれで、二十歳四カ月でのタイトルは、名人戦史上でも囲碁の七大棋戦でも最年少の記録付きの快挙でした。

 天皇が記者会見で「平成生まれの人々がスポーツや碁の世界などで活躍するようになりました。うれしいことです」と囲碁界にふれたのは、井山新名人が念頭にあってのことに違いありません。

 囲碁史塗り替えの快挙

 名人奪取の当日には出身地・東大阪市の関西地方では号外が出されるほど前代未聞の騒ぎともなりました。

 もっとも新名人は専門棋士の間ではすでに子どものころから逸材と認知された存在。将棋の羽生善治名人や渡辺明竜王が少年のころから「将来の名人・竜王」といわれてきたように、囲碁将棋の世界では名人になるべき者の運命は定められているようなのです。

 親が与えたテレビゲームで囲碁を覚えたのが五歳、一年で三段の上達は前例がなく、六歳のとき九路盤で争うテレビの囲碁番組でチャンピオン。才能にほれ込んだ日本棋院関西総本部の石井邦生九段が弟子にします。将来をかけてみたかったのです。

 NHKテレビで放映される全国少年少女囲碁大会では小学二年、三年と連続して優勝、十二歳での入段・プロ棋士は趙治勲二十五世本因坊の十一歳に次ぐ史上二番目。十六歳四カ月で全棋士参加のトーナメントで優勝、棋聖戦(十七歳十カ月)、名人戦(十八歳五カ月)、本因坊戦(二十歳二カ月)のリーグ入りはいずれも最年少です。記録は次々と塗り替えられました。

 栄光再びの期待大きく

 新名人の平成生まれを特徴づけるのはネット時代の申し子といえる点でしょう。これまでのトッププロが才能の集まる東京に移り住み、内弟子生活などで腕を磨いたのに対して、石井九段の指導はインターネット。週二日、一日二局のネット碁の対局と講評は千局に及んだそうですが、自宅に居ながらにしての名人はネットに秘密がありそうです。

 石井九段は著書の「わが天才棋士・井山裕太」(集英社インターナショナル)で、碁が強いだけでなく品格を備えた棋士に育ってもらうために礼儀や自分自身を鍛え磨くことを徹底させたと語っています。師匠の念願通りのさわやかな青年になっています。

 新名人誕生に新時代への期待がことのほか高いのは、実は日本囲碁界の屈辱の歴史の反映です。

 名人戦二度目の挑戦で井山新名人が倒したのは無敵の張栩(ちょうう)五冠でした。国際棋戦の優勝経験者で、現在の日本で世界と互角に戦えるとされる唯一の棋士です。勝ち碁の内容の充実ぶりや構想・着手の妙も絶賛されました。「天才中の天才。井山なら世界で戦える」の期待が膨らむのです。それほど中国、韓国に差を広げられてしまっている現状があるのです。

 囲碁の起源は紀元前の中国ですが、独自の文化に育てて芸道として深めたのは日本でした。伝来は四世紀後半。源氏物語や枕草子、今昔物語にも登場し、貴族や僧侶の遊びだった碁は、室町時代に大衆のものになり、江戸時代には幕府の保護で名人・碁所の制度も生まれて大いに発展しました。

 国際棋戦でもかつては日本の独壇場でしたが、いつしか韓国に、次いで中国に追い抜かれ、この十年はほとんど勝てなくなりました。「ぬるま湯の日本」の批判さえ聞かれます。切歯扼腕(やくわん)がプロ棋士の胸中でしょうが、ファンを納得させられる実績を挙げられないのが何よりつらいところでしょう。

 井山新名人は日本碁界の切り札です。国際棋戦への本格デビューは昨年でしたが、韓国や中国では予想通りの高い評価でした。日本復活の期待を一身に背負わせるのは気の毒なようでも頑張ってもらうしかありません。グローバル時代の若者は世界に羽ばたいてもらわなければならないからです。

 世界に羽ばたくために

 ことしの五月八日、自由奔放に生き、世界の棋士たちから慕われた名物棋士が世を去りました。藤沢秀行名誉棋聖八十三歳です。見込んだ若者への指導や激励には日本も韓国も中国も区別はありませんでした。病床での最後の揮毫(きごう)が「強烈な努力」でした。

 日本の棋士たちへの〓咤(しった)激励だったのでしょうか。紙一重の差が千里の隔たりともなるのは囲碁の世界ばかりではないはずです。並の努力では何ごともなしがたいとの教えが胸にしみます。

 

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