暦を見ると、きょう十一月二十八日は旧暦では十月十二日。一六九四年、旅に病んだ芭蕉翁が難波の地で、ついに白玉楼中の人となった日に当たる▼その命日を「時雨(しぐれ)忌」という。後撰和歌集にある<神無月降りみ降らずみ定めなき時雨ぞ冬の初めなりける>の歌のごとく、時雨とは、今時分、特に山あいの地などでよく見られる通り雨のことだ。そもそもが「過(す)ぐる」の語からの転だという▼芭蕉は死の七年前の一六八七年、『笈(おい)の小文(こぶみ)』の紀行へと旅立つが、その出立の日が奇遇にもまた十月十二日(関森勝夫著『時季(とき)のたまもの』)。その前日に開かれた送別の会では、こう詠んでいる。<旅人と我名(わがな)よばれん初しぐれ>▼俳聖のみならず、古来多くの文人が詩文に取り上げてきた時雨だが、降るか降らぬかの<定めなき>風情でなく、音に着目したものもある。例えば『枕草子』の美意識は常の通り簡潔に<時雨…は板屋>と断じる▼時雨の雨音を聞くなら、やはり板葺(ぶ)きの家でないと、ということだろう。同じ材でも、漂泊に生きた自由律の俳人山頭火の句になると、漂うのは強い寂寥(せきりょう)感だ。隙間(すきま)風吹き込む旅寝の先ででも、ふと、それに気づいたのだろうか。<おとはしぐれか>▼さて今、日本経済の屋根を激しくたたく、この冷たい雨の雨音を聞く。できるなら、さっさと「過ぐる」時雨であってほしいのだが。