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鳩山政権がアフガニスタンに対する新たな支援策を発表した。
反政府武装勢力タリバーンの元兵士に対する職業訓練や警察支援など、今後5年間で最大50億ドル(約4500億円)を拠出する。
アフガンの治安は悪化するばかりだ。米国は軍の増派を検討しているものの、軍事力だけで事態を好転させるのは難しい。だから、オバマ政権も欧州諸国も国の再建につながる日本の民生支援への期待を高めている。
現状では、日本が本格的に「人」を送り込む支援は難しい。だが、そんななかでも、民生面での支援に思い切った資金を提供するという政府の判断は、理にかなっている。
自公政権時代、政府はインド洋に海上自衛隊を派遣し、多国籍軍の艦艇に給油を続けてきた。鳩山政権は来年1月に打ち切る方針だ。選挙前の主張にそったもので、最近減っている給油需要を考えても納得できる措置だ。
この判断を「小切手外交」と批判する議論がある。インド洋での給油活動は「テロとの戦い」への貢献だ。米国からも評価されてきた。その自衛隊を退かせ、資金提供だけで国際社会への貢献を果たしたつもりになるのはおかしいという理屈だ。巨額の資金援助をしながら国際的には評価されなかった18年前の湾岸戦争の時のトラウマが背景にあるのだろうか。
だが、批判は的外れだ。アフガン安定のために日本ができること、すべきことを、外圧によるのでなく、日本自らが冷静に考えるべきだ。それは、軍事面での役割に限界のある日本として、民生面でできる限りの支援を送ることなのではないのか。
日本のアフガン民生支援には、誇るべき実績がある。ソ連軍の侵攻前にも主要都市での給水や稲作指導にあたってきた。当時の経験は今の国際協力機構(JICA)などのプロジェクトに受け継がれている。
日本が長期的視点でアフガンの国造りを支えることは、結果としてテロリストの温床を断つことにつながる。兵員を派遣している米国などの努力を側面から支えることにもなる。米大統領報道官がさっそく歓迎する声明を出したのも、そうした文脈からだろう。
ただ、50億ドルという支援規模は、具体策を積み上げた結果ではない。オバマ大統領の訪日を控え、給油をやめることに理解を得るための、まず総額ありきの決定だったのも否めない。
カルザイ政権の汚職・腐敗体質の中で日本の資金が消えてしまわないよう、政府は綿密な支援計画をたて、実施面でも厳しく目を光らせる責任がある。これだけの税金をつぎ込むのだ。その意義を日本の納税者に説明するとともに、国際社会に向けて日本の貢献策を積極的に発信してもらいたい。
モリシゲさんが亡くなった。
ある時は軽妙な演技で観客を笑いの渦に巻き込み、またある時は、人情味たっぷりに庶民の哀歓を描きだす。威厳に満ちた政治家の役も、女房に甘えるダメ亭主も似合った。話術も文筆の腕も冴(さ)えていた。
芸域の広さと多才さ。その俳優としての大きさと奥行きで、「森繁久弥」は戦後という時代を映し続けた。
早稲田大学を中退して東宝劇団に入った森繁さんは、38年に軍隊に召集された。耳の病気ですぐに帰され、翌年、NHKのアナウンサーとして旧満州へ。そこで敗戦を迎えた。
戦後、再び俳優として歩み始め、ラジオ番組での達者なコメディアンぶりが注目された。
映画の出世作は、52年の「三等重役」。大物経営者が戦争協力を問われて退任し、代わりに社長になった社員を補佐する調子のいい課長を演じた。その後、70年代初めまで続く「社長シリーズ」などのサラリーマン喜劇は、日本映画の黄金期を支えた。
60年代半ばからは、テレビのホームドラマに数多く出演。家族の中心にいる祖父や父親役で親しまれた。
73年の映画「恍惚(こうこつ)の人」では、認知症の姿をリアルに見せた。介護の問題が社会で共有されるより、はるかに前のことである。
高度成長期の陽気で活力あふれる会社員。新しい家族像が模索された時代のおとうさん。そして、高齢化社会の現実。森繁さんは戦後の日本社会に生きる人々を鮮やかに演じ続けた。
ラジオ、映画、そしてテレビと、活躍の場も、その時々に最も大きな影響力を持つメディアだった。
舞台人としての代表作は、67年から900回演じたミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」だろう。ロシアに暮らすユダヤ人の父親を日本人の情感に引きつけ、82年には当時としては異例の半年に及ぶロングランを成功させた。今日のミュージカル全盛の礎を築いた一人でもある。
91年には、現代劇の俳優として初めて文化勲章を受けた。歌舞伎や能など評価が定まった伝統芸能ではなく、いま、ここで生きる大衆のための芸能を、ひとつの権威の中に位置づけたのだ。「21世紀の門が開かれた」という受章の言葉に自負と感慨があふれた。
森繁さんの原点には、旧満州からの過酷な引き揚げ体験がある。死と隣り合わせの日々を、後に繰り返し語り、書いている。
50年に公開された最初の主演映画の出演料で自分の墓を建てたと自伝に記している。「拾った後半生、終着駅だけはちゃんとしておきたい」と。
それからほぼ60年。自身が思い描いた「華々しく、悠々と」した人生の幕がおりた。96歳。見事な生涯である。