実験中の事故による凍傷で顔が焼けただれた<ぼく>が、高分子化学の技術を用いて精巧な仮面を作るのが安部公房の小説『他人の顔』だ▼一昨年春、千葉県市川市で英国籍の英会話講師の女性の遺体がみつかった事件。死体遺棄容疑で指名手配されていた市橋達也容疑者が欲しかったのも、<他人の顔>だったに違いない。行方をくらました後、整形手術を重ねて顔を変えながら逃亡を続けていたが、昨日、大阪で逮捕された▼大阪の建設会社では、気づかれないまま、この十月まで一年以上も住み込み作業員として働いていた。思惑通り、ある程度は、<他人の顔>になりおおせていたということかもしれない▼小説の<ぼく>は仮面をつけたことで最初、<名前も、身分も、年齢もない>完全な匿名性を得て<有り余る自由>を感じる。しかし、市橋容疑者の場合は、それとは正反対の展開になった▼手配された当初は、もともとの顔の写真が繰り返しメディアにも出たが、このごろは報道も減り、容疑者の顔の印象は相当薄れていた。そこへ、突如、整形手術を受けていたとのニュース。整形後の写真も公開されて一気に世間の耳目を集めた。顔を変えて、かえって顔を知られた逃亡者の皮肉である▼女性講師がむごい命の絶たれかたをしてから約二年半。事件の真相を語る上では無論、もう<他人の顔>は通用しない。