COP10。生物多様性条約第十回締約国会議の名古屋開催まであと一年。人は、多様ないのちのおかげで生きています。無関心ではいられません。
何とも奇妙な、それでいて魅力に満ちた構図と色彩です。
江戸中期の絵師、伊藤若冲が描いた「池辺(ちへん)群虫図」。代表作といわれる「動植綵絵(さいえ)」三十幅の中でも特に、人気の高い一幅です。
ヒョウタンのつるが縦横無尽にはい回り、およそ思い付く限りの昆虫、爬(は)虫類(ちゅうるい)、両生類が、飛んだり、跳ねたり、泳いだり。
◆京都会議に匹敵する
二〇〇二年に政府がつくった新・生物多様性国家戦略の一般向けパンフレット「いのちは創(つく)れない」の表紙にも、この絵がデザインされています。
生き物の描写は精緻(せいち)を極め、花鳥風月の次元を超えて、「生物多様性」を、もし一枚の絵にすれば、かくのごとしの趣です。
絵師の目はあくまで冷徹に、生き物の動きや姿形を外側から観察し、熟練の絵筆で正しく再現しています。まるで造物主のように、完璧(かんぺき)なまなざしです。ところが、そこに完璧な「多様性」があるかといえば、やはり何かが足りません。天才絵師が「動植綵絵」に描かなかったもの、それは人間という、最も身近な生き物です。
二十世紀に入り、生物の絶滅速度は約千倍に加速しました。ホッキョクグマだけではありません。国際自然保護連合(IUCN)の調査では、哺乳(ほにゅう)類の21%、鳥類の12%、両生類の30%、そして「池辺群虫図」の主役である昆虫類の約半分が、絶滅の危機にひんしています。若冲の傑作も、遠からず“過去の遺産”を描いたものになるのでしょうか。
COP10は、絶滅の猛スピードに歯止めをかけようと、世界約百九十カ国の代表など約一万人が名古屋に集まって、話し合う会議です。例えば「名古屋議定書」のような、法的拘束力を持つ数値目標の策定を目指すという意味で、温暖化対策の京都会議と同等の、歴史に残るイベントです。
では「自然保護」の会議かといえば、それだけではありません。もちろん、生物個々のいのちは、かけがえのないものです。しかし、困ったことにわれわれ人間は、そのいのちを利用せずには生きられません。われわれは、医療も含め、衣食住すべてを、他の生命に依存して暮らしています。
多様な生き物の多様ないのちは、われわれ人間の多様で豊かな暮らしを支える土台です。人間も生態系の一員です。その大切な土台が崩れそうになっています。ほかならぬ人間自身の貪欲(どんよく)と無関心の結果です。
◆「食」はいのちそのもの
例えば「食」。私たちは、つい半世紀前には身近にあった「飢え」という言葉の意味を知りません。ところが、スーパーに安価で並ぶ食品の豊富さに目がくらみ、飽食を満喫し、食べ残しの山をせっせと築いているうちに、その影は少しずつ近づいてきています。
「食」は、いのちそのもので、いのちには、質、量ともに必ず限りがあるからです。
国連食糧農業機関(FAO)は、増え続ける地球人口を養うためには、五〇年までに世界全体で食料を70%増産する必要があると、警告を発しています。
わが国の食料自給率は、カロリー換算でわずか41%、われわれはただでさえ、いのちの恵みが乏しい国で危うい日々を送っています。
「生物資源の持続可能な利用」「遺伝資源から得られる利益の公平な分配」も、COP10の重要なテーマです。「食」の問題一つとっても、会議の行方は日々の暮らしに直結します。とりわけ都会の消費者に、大きく影響するはずです。
だれのため、なぜ「いのちの多様さ」を守るべきかと問われれば、結局は人間のため、われわれ人間が末永く、たくさんのいのちの恵みを享受しながら豊かに暮らすため、そう強調せざるを得ないでしょう。利用のためのCOP10、人間のためのCOP10、だとすれば、だれもが無関係、無関心ではいられませんと。
一昨年策定された第三次生物多様性国家戦略のパンフレット「いのちは支えあう」の表紙は、近代の日本画家、川合玉堂の「屋根草を刈る」に変わっています。
◆そこに人間がいてこそ
イチジクの実りを前景に、画面全体に描かれた古い大きなかやぶき屋根、その上で植木職人が、伸びた雑草を刈っています。職人は笑みを浮かべているようです。チョウチョが三匹遊んでいます。
そこには、ちゃんと人がいます。自然を利用し、自然に働き掛けながら、いのちを敬い、共生を模索する、さりげない人の暮らしが息づいているようです。何となく、ほっとする風景です。
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