ベルリンの壁崩壊から二十年、ドイツ人作家ヘルタ・ミュラーさんがノーベル文学賞を受賞した。今は昔、の感も漂う東欧革命を風化させまい。選考にはそんな願いもこめられていよう▼「澱(よど)み」「狙われたキツネ」「飛べない雉(きじ)」。作品を貫く文章は「凝縮された寡黙な文体」と小泉淳二・茨城大教授が本紙文化欄で紹介している。ルーマニアのドイツ系少数民族として、またチャウシェスク政権下の反体制作家として日々背負った辛酸を思う▼ミュラーさんが学んだ大学の地ティミショアラには革命のさなか取材で訪れたことがある。ハンガリー系牧師テケシュ師の逮捕をめぐり蜂起した住民が道路に溢(あふ)れ、中央の赤い星をくりぬかれた国旗が街中に翻っていた。同行のハンガリー人運転手と、セキュリターテ(治安部隊)に狙撃対象とされはしまいか、気が気でなかった▼ルーマニアはじめ東欧諸国は次々欧州連合(EU)加盟を果たし、欧州回帰が進む▼一方で、治安組織と思想統制が常だった独裁体制そのままの国がなお存在するのも厳然たる事実だ。チャウシェスク処刑による体制崩壊は北朝鮮に大きな衝撃を与え、その後の執拗(しつよう)な核開発につながっている▼「えっ、私が?」。受賞の報を受けたミュラーさんの第一声だ。ティミショアラから生まれた物語は、その驚きの重みを静かに語ってくれるだろう。