五輪に新たな風が吹いた。南米初の開催が決まったことには大きな意味と価値がある。これを契機に、本来の五輪精神に沿った、より幅広い開催地選びが行われるのを期待したい。
国際オリンピック委員会(IOC)が画期的な選択をした。コペンハーゲンで開かれた総会で、二〇一六年夏季五輪の開催地に圧倒的得票で選ばれたのはブラジルのリオデジャネイロ。東京、マドリード、シカゴという強敵を向こうに回して、南米に初の五輪をもたらしたのだ。
南米とアフリカでは一度も開かれたことのないオリンピック。南米からはリオやブエノスアイレスなどが立候補してきたが、開催権をつかむことはできなかった。だが、近代五輪が始まって百十年余が過ぎたところで、ついに空白のひとつが埋められたのである。
五輪は本来、さまざまな地域、文化圏で開かれるべきであるはずだ。これはスポーツの祭典であるとともに、世界中の交流、友好を深めるための催しでもある。なのに開催に無縁の地域があった。また近年は先進国の中心都市に偏る傾向がますます強まっている。
規模の大きい夏季大会は、このところ名だたる大都市しか候補になっていない。肥大化が進み、豪華さを競うショーアップ路線が続いた結果、五輪は膨大な資金と国家的バックアップを必須とする超巨大イベントになってしまった。となると、舞台はどうしても大国の大都市となる。中規模の国や都市では手が出ないのだ。
一六年を目指す国内選考で福岡が敗れたのも、東京でなければ勝てないとの声が強かったからだ。またIOCは開催地にすべての面で高い水準を求めており、中小都市の可能性はほとんど閉ざされていた。これは本来の五輪精神に沿うものとはいえないだろう。
そんな中で、今回のリオ当選は一筋の光となった。リオも有数の大都市ではあるが、新興国での開催が選択され、長い空白が埋められた意義は小さくない。これが本来のあり方に近づく第一歩になるかもしれないからだ。
五輪の現状にはある種のゆがみがある。巨大な豪華ショーばかりでなく、もっと素朴で質素で親しみやすい大会もあった方がいい。そして、より多くの地域で、大都市でなくとも開けるように努力すべきだろう。開催地選択はもっと幅広くあるべきなのだ。空白のひとつが埋まった今回は、あらためて省みる好機ではないか。
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