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5千円札が出たのは1957(昭和32)年である。翌年には1万円札が続き、聖徳太子は高度成長の顔となった。大都市には労働者が密集し、家電が普及し始める。そんな時代を、未曽有の災害が襲った▼59年の9月26日は、今年と同じ土曜だった。名古屋地方気象台は、怪物のような台風15号に忙殺されていた。接近時の中心気圧は900ヘクトパスカルを下回り、夕刻、さほど衰えないまま紀伊半島に上陸する▼停電で情報が途絶える中、南からの暴風に乗って5メートルもの高潮が襲った。港の貯木場から流れ出た巨木が家々をつぶし、死者・不明者は名古屋市の低地を中心に5098人。伊勢湾台風の名がついたのは4日後である▼阪神大震災まで、これが戦後最悪の天変地異だった。濁流にのまれ、闇に引き裂かれた家族は数知れず、多くの悲話が残る。一つを、翌年に出た『伊勢湾台風物語』(寺沢鎮著)で知った▼ある家で5歳ほどの男の子の亡きがらが見つかった。傍らに水筒とリュック、財布には1枚の5千円札が入っていたという。親は「この子だけは」と手を尽くし、水にさらわれたらしい。初任給が1万円前後の頃である。こうして、中京地区の物づくりを支えるはずだった幾多の命が失われた▼気象台は台風の進路を読み切り、早めに警報を出していた。行政が避難を徹底させれば死者は250人に抑えられた、との分析もある。わが身は己で守るだけと、以後、電池式の携帯ラジオが普及した。「自助」が命を救うという防災の教訓は、半世紀を経ても色あせない。