民主党の岡田克也幹事長が各省の事務次官による記者会見の廃止を検討する考えを表明した。記者会見だけではないが、それを含む多様な取材を重ねて真実に迫り、伝えるメディアの機能に対する認識を欠く提案である。撤回を求める。
岡田氏は(1)事務次官会議がなくなるので次官会見は必要ない(2)閣僚、副大臣、政務官がしっかり対外説明すれば、国民の「知る権利」上の問題にはならない――と述べた。官僚主導から政治主導への転換のために、官僚による世論誘導を抑える狙いがあると解説された。
そもそも「知る権利」との間で問題が生じるかどうかは、いわば「知られる側」である政治権力者が判断する問題ではない。外相に内定した岡田氏は明確に権力の側に立つ。
権力を持つ側は、常に記者会見を嫌い、減らそうとする。小沢一郎氏は細川政権時代に「記者会見はサービスであり、義務ではない」と述べた。ほかにも実例がある。
2003年、自衛隊のイラク派遣を前に福田康夫官房長官は、制服組首脳の記者会見を減らせと命じた。08年のイージス艦「あたご」衝突事故の際は、増田好平防衛次官が同様の提案をした。機微な問題に対する情報管理のために取材の場を減らしたかったのだろう。岡田氏の意図は違うが、本質は大差ない。
「政治主導だから官僚は発言するな」が趣旨ならば、官僚たちは記者会見だけでなく非公式取材にも応じなくなる。政治主導が究極的に官邸主導だとすれば「官房長官が発表するから各閣僚は発言するな」と拡大解釈される危険もある。それでも「知る権利」上の問題はないのか。
「次官会議がなくなるので次官会見は必要ない」も実態を知らない形式論である。閣僚の閣議後の記者会見が閣議の内容にとどまらず幅広い話題を取り扱うのと同様に、次官会見の中身も、次官会議の説明にとどまらない。政治主導だからこそ、官僚トップの反応を公式の場で聞く記者会見には意味がある。
記者会見は官僚に対する監視の場でもある。08年、白須敏朗農水次官は「事故米」をめぐる会見発言が理由で辞任した。会見廃止を喜ぶのは官僚たちである。