甲子園球場で熱闘が続いているが、敗れたチームの球児がグラウンドの土を持ち帰る慣習はいつ始まったのだろう。諸説あるが、一九四九年の夏の大会で準々決勝で敗れ、三連覇を逃した小倉(福岡県)の福嶋一雄投手が、ズボンのポケットにしのばせたのが戦後初らしい▼土の質も変わった。現在の甲子園の土は国内の黒土と中国福建省の白砂のブレンド。雨量や日差しに合わせ、春は砂を多く夏は黒土を多くするなど調整しているそうだ▼「聖地」の土といえば、硫黄島の摺鉢(すりばち)山でまるで高校球児のように、山頂の土をペットボトルに詰めていた米海兵隊員の姿を思い出す。二〇〇五年三月十二日、日米合同の慰霊祭が開かれた時のことだ▼聞いてみると、新兵募集の際に見せるのだという。日米両軍で二万七千人以上が戦死。太平洋戦争で最大級の激戦地になったのが、太平洋に浮かぶこの小さな島だった▼頂上に星条旗を掲げた米軍兵士の写真は切手のデザインになった。現在も一万人以上の日本兵の遺骨が眠る島は、勝者にとっても特別な意味を持つ場所だったのだ▼終戦記念日の十五日、甲子園球場では正午からサイレンが鳴り響き、選手やスタンドの観客が一分間黙とうした。試合再開時に、アナウンサーは野球ができる喜びや伝えられる喜びを感じながら放送したいと語った。その言葉に大きくうなずいた。