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コバルト色の東シナ海を望む沖縄県恩納村の海岸近くに、複数のトンネルを横に並べたような巨大建造物が立っている。冷戦期の1960年代に配備されていた中距離核弾頭ミサイル「メースB」発射基地の跡である。
全長13メートルの核ミサイルは、広島型原爆並みの威力を持っていたとされる。今は宗教法人の施設となっているコンクリートの塊は、東西両陣営がお互いののど元に核ミサイルを突きつけ合っていた生々しい現実を、21世紀の今も見せつけている。復帰前の沖縄とはいえ、この列島に核ミサイル基地が存在していたという事実は、戦後日本の核をめぐる宿命を象徴している。
「炭のように体を焼かれ、一口の水も飲むこともできずに亡くなった多くの人々よ」。9日の原爆の日、長崎の式典で被爆者の代表は語りかけた。
64年前の夏、広島、長崎の上空で核爆弾が炸裂(さくれつ)し、数十万の命が一瞬に、そして長い年月にわたって奪われた。二度とこの惨禍を繰り返してはならない、そう日本人は魂の奥底に刻んだ。
■「非核」対「抑止」
この国民感情が「非核三原則」を生み、核廃絶の理念を訴え続ける行動となって表れた。
だが、一方で戦後日本は、米国の核兵器による抑止力に依存することで、自国の安全を保障する道を選ぶ。片方の手で核兵器の非人道性を訴え、もう一方の手で米国の「核の傘」を求めるというジレンマを、戦後の私たちは生きてきた。
この「使い分け」は、様々な齟齬(そご)をきたすこととなった。日米安保改定や沖縄返還時の「核密約」も、そのひとつだ。国際政治の場でも、90年代から毎年、国連総会で核廃絶決議を提案する一方で、核の先制不使用宣言には消極的な姿勢を見せるなど、煮え切らない態度を取り続けてきた。
だが、この宿命的なジレンマを乗り越えられるかもしれない大きな転機が、訪れようとしている。
秋葉忠利・広島市長は6日、「核兵器廃絶のために活動する責任」を訴えた。「核兵器を使った唯一の国としての道義的責任」を語ったオバマ米大統領のプラハ演説に応えるかのように、「被爆国の責任」をあえて強調した。
グローバル化した世界では、「核のない世界」を目指す方が現実的な安全保障になりうる――。オバマ演説は、日本に核兵器を投下し、戦後は「核の傘」を提供してきた当の国から発せられた「時代の変化」の宣言だった。核廃絶と核抑止のはざまで身動きがとれなくなっている被爆国日本へのメッセージと受け止めることができる。
■被爆地という公共財
核兵器がいかに非人間的な兵器であるか、その実相を発信し続けることは、被爆地にしかできない。核廃絶を目指す世界的な連帯を広げるには、被爆体験は絶大な力となる。広島、長崎の負の遺産は、一方で「核なき世界」の実現に向けて大きな力となる「国際公共財」だと考えよう。
沖縄の体験も、改めて見つめ直したい。64年前、凄惨(せいさん)な地上戦に巻き込まれた沖縄は戦後、核の傘の「柄」の1本の役割を課せられただけでなく、ベトナムや中東への米軍の出撃拠点となり、今、北朝鮮をめぐる危機に向き合う。そんな極度の軍事的緊張にさらされ続けてきたにもかかわらず、非暴力、非戦を貫く沖縄の人々の脈々たる思いは、今も生き続けている。
それを象徴したのが、北朝鮮が核実験を強行した3年前に、沖縄の人々が見せた反応だった。ミサイル防衛のための兵器、パトリオット3を米軍が沖縄へ持ち込もうとした際、住民団体が港で座り込みをして反対をしたのだ。
「むしろ沖縄の人は喜んでもらいたい」という当時の久間防衛庁長官の言葉がさらに反発を招き、地元首長たちも反対を表明した。「ミサイルは基地を守るだけだ。軍備が住民を守らないことを沖縄は知っている」。当時、運動にかかわった人はこう話した。
■理念と現実を結ぶ
軍事力に軍事力をもって対抗することは必ずしも平和を保障しないことを、沖縄の人々は肌身で知っている。この思いと通底するように、核対核による抑止では平和も安全も守れないことに、世界は気づき始めた。
すれ違うばかりだった理念と現実、平和を祈る思いと政治の論理を、同じ地平に上げるべき時ではなかろうか。ヒロシマ、ナガサキという国際公共財、そしてオキナワの体験。これらの「財産」を、核をめぐる政策論議に生かす道を考えたい。
道は決して平坦(へいたん)ではないし、確かなゴールも見えない。朝鮮半島には冷戦の残滓(ざんし)があり、北の核開発という現実の脅威が迫る。だからといって、「核の傘」の強化に力を注いだり、ましてや核武装論を叫んだりするようなことは、「核には核を」という負の連鎖を自ら作り上げることにほかならない。
平和を求める理念を鍛え、ねばり強い外交交渉で現実を切り開き、一歩ずつ、まずは自国周辺に前向きの潮流を生み出す。決して不可能なことではないはずだ。それには、広島、長崎、沖縄の地から発した日本人の自然な民意が、最大の支えとなる。
平和を希求する市民の心性と、国際社会の現実を見据えた外交の知恵が結びついた時、被爆国日本の本当の力が生まれる。