
HTTP/1.0 200 OK Server: Apache Content-Length: 57406 Content-Type: text/html ETag: "fefaf-15c3-a2f39bc0" Expires: Mon, 03 Aug 2009 21:21:09 GMT Cache-Control: max-age=0, no-cache Pragma: no-cache Date: Mon, 03 Aug 2009 21:21:09 GMT Connection: close
![]() 古橋広之進さん 水泳ニッポンを支え続けて(8月4日付・読売社説)その功績は「フジヤマのトビウオ」の名とともに、記憶し続けられるに違いない。 日本水泳連盟名誉会長の古橋広之進さんが死去した。80歳だった。 国際水泳連盟副会長として、世界選手権が開かれたローマに滞在中の突然の病死である。スポーツ界の先導者の冥福を祈りたい。 競泳選手だった古橋さんは、日本の復興期に、世界記録を33回も塗り替えた。 語り継がれているのは、まだ敗戦の傷が癒えない1948年の日本選手権だ。 日本はこの年のロンドン五輪への参加が認められなかったため、日本水連は、あえて五輪と同じ日程で日本選手権を開催した。古橋さんは400メートル、1500メートル自由形で、五輪の優勝タイムを大きく上回る記録を出したのだった。 49年の全米選手権でも世界記録を連発し、現地の新聞は、「フジヤマのトビウオ」と称賛した。 湯川秀樹博士が日本初のノーベル賞を受賞し、日本人に自信や希望を与えた年でもあった。古橋さんも、まさに同じような存在であったといえよう。 52年のヘルシンキ五輪400メートル自由形では8位だった。この時、実況のアナウンサーが「古橋を責めないで下さい。古橋の活躍なくして、戦後日本の発展はありえなかった」と語ったのは有名だ。 引退後の古橋さんは、日本水連会長などとして、低迷が続いた日本水泳界の立て直しに尽力した。選手にも気軽に声をかけた。その存在自体が、選手にとっては大きな励みであったはずだ。 「水泳ニッポン」は現在、力を盛り返しつつある。 日本オリンピック委員会会長としても、スポーツ界全体の発展に寄与した。昨年、スポーツ選手出身者として初めて文化勲章を受章した時には、「スポーツの素晴らしさを伝えたいと頑張ってきた」と喜びを語っていた。 競泳界は、高速水着が脚光を浴び、記録も飛躍的に伸びている。だが、選手の確かな技量と、これを支える日ごろの鍛錬があってこそ、水着の性能も生きる。 「魚になるまで泳げ」という古橋さんの教えは、これからも生き続けるであろう。 「伸び盛りの選手が登場し、ベテランを必死にさせる状況が理想だ」。古橋さんのこの言葉は、どの競技にも通じるものだろう。 遺志を継ぎ、日本のスポーツ界のレベルが一層、向上していくことを期待したい。 (2009年8月4日00時43分 読売新聞)
東京本社発行の最終版から掲載しています。
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