クラシック愛好家の知人が、プロとアマの演奏について異説を垂れたことがある。「演奏家が苦悩し聴衆が陶酔するのがプロ。演奏家が陶酔し聴衆は苦悩するのがアマ」▼当否はさておき、世界的ソリストとして活躍するプロの厳しさは聞きしに勝るものという。「一日練習せざれば自身に、二日なら批評家に、三日なら聴衆に伝わる」。仏の名ピアニストとして知られたコルトーの言葉だ▼弾くも楽しい、聴くも楽しい、そんな純粋な喜びに周囲を誘(いざな)うことができる演奏家は稀(まれ)だ。バン・クライバーン国際コンクール優勝で脚光を浴びた辻井伸行さんは、そこに至る天与の才を認められたと言えようか▼母親の辻井いつ子さん著『のぶカンタービレ!』には、聴衆の前で弾く機会に恵まれる度に人として音楽家として成長しゆくわが子の姿が描かれている。音楽が秘める力の大きさに驚く▼国策として「洋楽」を輸入した明治の揺籃期(ようらんき)、重圧のあまり異郷で自害した官費留学生がいた。戦後、技巧を誇示するように日本人がコンクールを席巻、国際社会から異様な眼差(まなざ)しを向けられた時期もある。先達が耕してきた土壌の上に今新しい音楽が芽生え始めたといえば大仰だろうか▼「伸くんのなかには、世界の音楽の扉を開ける鍵が埋め込まれている」。良き理解者である指揮者の佐渡裕さんの言葉にその兆しを感じる。