夜、空を見上げていると、最初は見えなかった星が一つ、また一つと見えてくる。そんな経験はないだろうか▼あるいは地下鉄の駅の出口を見ていたら、人が続々と出てきたとしよう。無論、地上だから電車は見えない。見えないけれど、今し方電車が駅に着いたということはそれで知れる。じっと「見る」ことを続けていると、見えないものも見えてくることがある▼思い起こすのは国語学者の故大野晋さんが著書などで度々、訴えていたことだ。日本人はともすれば「感じる」に流れやすく「見る」がおろそかになっている、と。この碩学(せきがく)の指摘は今、ひときわ強く響くものがある。何となれば、この国が政治の季節を迎えているからだ▼真夏の総選挙は事実上、始まっている。だが、肝心要のマニフェスト(政権公約)は自民党も民主党も未発表。この国をどうしたいのか、党の違いは何なのか。すべて明確に示される、とまでは残念ながら言い切れないが、とにかく有権者としてはそれをじっくり「見る」ようにしたい▼思い起こせば四年前だ。自公政権が圧倒的議席を得た熱狂の“小泉現象”。あれは「感じる」に傾いた判断がもたらしたものではなかったか。その結果はといえば、競争重視、格差は拡大…。日本はずいぶん世知辛くなった気がする▼じっと「見る」。それは多分、「見破る」にもつながるだろう。