子どもの教育にはたいへんなお金がかかる。こう思わない人はいないだろう。そうした不安が少子化の一因になっているのは間違いない。
国立人口問題研の出生動向基本調査(2005年)によると、夫婦が理想とする子どもの数は平均2.48人だが予定しているのは2.11人。実際にはもちろんさらに少ない。理想の数に達しない理由を聞くと、66%が「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」と答えている。
私立校や塾の負担重く
この背景には学力や「いじめ」問題などをめぐる公教育への不信がある。公教育が心もとないから早い時期から私学へ入れたり塾通いをさせたりせざるを得ない、しかしそのための出費が大きすぎて心配、という意識だ。それなら負担の小さい公立校の魅力を高め、不安をぬぐう方策を考えなければならない。
文部科学省の調査では、小学校から大学までに必要な教育費はすべて公立・国立なら約800万円だが、中学校から私立だと2倍にはね上がる。私立の中高一貫校は6年間で約700万円は必要だ。公立中学に通っていても学習塾の負担は重く、夏季講習なども含めると年間30万円以上もかかるケースが珍しくない。
それでも首都圏では中高一貫校に進む小学生が3割ほどに上り、東京では6割にも達する小学校がある。公立中学生で塾に通っているのは約7割、小学生も中学受験を目指す場合は大半の子どもが通塾する。
多くの親がこうした負担に耐えながらなお「脱・公教育」を目指すのは、それに見合う成果が期待できるからだ。たとえば東京大学合格者のうち6割ほどは中高一貫校の出身者が占める。こんな傾向が呼び水になってさらに私学に生徒が流れ、公立校は地盤沈下する。大都市圏を中心に、ふつうの公立高から有名大学に進みにくくなって久しい。
これでは所得が低い家庭の子どもは進学の道を制約され、意欲も失うことになる。東大大学院の調査では年収1000万円以上の家庭の子どもは大学進学率が6割を超えるのに400万円以下だと3割ほどだ。東大生の半数以上の家庭が年収950万円以上というデータもある。
こうした現実を踏まえれば、公教育の再生が少子化対策の重要な柱になるのは確かだろう。
そのひとつの方策はもちろん、教育への十分な公的支出によって教育条件を整え、教育環境の改善も進めることだ。少人数学級の実現から高校などの授業料減免、パソコンや電子黒板の配備まで財政措置が伴わなければ始まらない課題は多い。
経済協力開発機構(OECD)の調査では、国内総生産(GDP)に対する教育費の公的支出の比率は日本は主要28カ国中で最下位の3.4%だ。公私の負担割合も日本は家計の比重が大きい。厳しい財政事情の下とはいえ、こうした現状を放置しておくわけにはいくまい。
しかし肝心なのは教育の中身だ。公立校がそれぞれ魅力のある授業や課外活動を編み出していくことである。そのためには中央集権的な教育行政の見直しが必要となる。
戦後の教育行政は文科省が学習指導要領で細かなカリキュラムを定めて学校現場を拘束し、教科書検定を通してそれを補強し、教員の養成や登用も免許制度によって一元的に進めるといったやり方が続いてきた。地方の教育委員会は文科省の出先機関とも化している。
統制緩め現場に裁量を
こうしたシステムが均質な教育を保証してきた面はあるが、一方で地域や学校の創意工夫の余地を狭め、本来の魅力を奪っている。もっと地域や学校現場に裁量を与えたり、教員を積極的に外部から招いたりして風通しのよい公教育に転換する時期だ。受験学力一辺倒では困るが、私学や塾に見習う点も多いだろう。
地方ではすでに、中高だけでなく公立小中学校の一貫教育や公立高のテコ入れなど独自の試みも始まっている。公立校が教育環境と教育内容の両面で頼りがいのある存在に生まれ変われば、子どもの教育に余計な出費をする場面が少なくなり、教育不安はずっと小さくなるだろう。
もっとも、公教育離れの底流には「どんなに無理をしてでも有名大学へ」というブランド志向もある。それを支えているのは、企業などが人材採用にあたって出身校にばかり目を向ける現実にほかならない。
親の経済力によって子どもの将来が左右され、それが次の世代でも繰り返されていくとすれば社会は活力を失う。そんな傾向を断ち切るためにも企業は人材登用の尺度を見直していくべきだろう。それはまた、遠回りでも少子化を乗り越えるためのひとつの手立てとなるはずだ。