HTTP/1.1 200 OK Connection: close Date: Tue, 21 Jul 2009 20:18:51 GMT Server: Apache/2 Accept-Ranges: bytes Content-Type: text/html Age: 0 東京新聞:いかに生きるべきか。生を受けた以上は、誰もが悩む難題である…:社説・コラム(TOKYO Web)
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【コラム】

筆洗

2009年7月20日

 いかに生きるべきか。生を受けた以上は、誰もが悩む難題である。進学や就職、結婚…。人生の節目が来ると難題は時々、頭の中を占拠しようと試みる。人生訓の本が書店から消えないはずである▼小説にも人生訓の要素は少なからずある。若いころは司馬遼太郎、中年と呼ばれるようになってからは、池波正太郎や藤沢周平の作品に登場する人物の影響を受けた覚えがある▼作家も意識して書いていたらしい。藤沢は城山三郎との対談で<時代の一種の使命感があって、啓蒙(けいもう)的な役割を荷(にな)っていた>と小説、特に時代小説がかつて、人生訓を説いた理由を明かしている▼ただし本人は「何を偉そうなことを」と思ってしまうので、その役回りを演じる気はなかった。例外といえそうなのが『三屋清左衛門残日録』の最後の方で、死生観めいた内容を書いたことだという。どんな内容なのか紹介しよう▼隠居の身の主人公が偶然、病に倒れた友が歩く習練を始めた場面を目撃する。杖(つえ)をついており、何度となく転びそうになるが、やめようとしない。胸を波打たせて思う。<いよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽して生き抜かねばならぬ>と▼人生の酸いも甘いも知り尽くした藤沢の内心から、自然とにじみ出た言葉なのだろう。心の奥底に大切にしまっておきたい人生訓である。

 

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