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世界を舞台に活躍する日本人は多いが、広く名の知れた人となると限られる。そのうえ地位に安住せず、発信力を次代のために使おうと発起する人は少ない。デザイナーの三宅一生さん(71)は、その道を選んだ▼広島出身の三宅さんは、ニューヨーク・タイムズ紙への寄稿で自らの原爆体験に触れ、オバマ米大統領に平和記念式への出席を呼びかけた。〈未来の核戦争の芽を摘むことが大統領の目標であると世界中に伝えるには、それが最上の方策と思うからです〉▼あの日、三宅さんは7歳だった。〈炸裂(さくれつ)した真っ赤な光、直後にわき上がった黒い雲、逃げまどう人々。すべてを覚えています〉。放射線を浴びた母親は3年後に亡くなった▼ヒロシマの残像は〈心の奥深くに埋もれさせていた〉という。「原爆を知るデザイナー」と安易にくくられたくなかった。そんな三宅さんを、「核兵器を使った唯一の国として、核なき世界を目ざす」というオバマ演説が動かす。自分も発言すべきだと▼破壊を憎んでのことだろう。三宅さんは服づくりに美と喜びを追い求め、「一枚の布」の考えで東西の違いを超えてみせた。芸術性に富み、産業のためではなく人が生きるためのデザインは、世界から支持された▼投下目標が少し違えば、服飾の革命家は七つで消えていたはずだ。同じ朝、それぞれの夢を抱えて大きく育つべきいくつもの命が、一瞬にして失われた。生かされ名を遂げ、「通る声」を持つに至った者の訴えはひときわ重い。「イッセイ・ミヤケ」だけができる仕事である。