ライフテイカー 第1話 ライフテイカー 八壁ゆかり 第1話 0.  事実は小説よりマンガなり、と言ったのはカズヤだった。  平凡な日常なんてものは誰かの小手先の力で簡単に崩壊するもので、時にそれは小説なんかよりもっとコミカルでシュールな展開を見せる。非日常的で非現実的なこの世界。そもそもカズヤ自身、ここ数年マンガ的な状況下にあるんだから、まったく笑えない。  なんで人間の感情は簡単に歪んでしまうんだろう。  とか何とか俺みたいなバカが考えても仕方のない事だし、恐らくそこに正解はない。時間の無駄。  歪んだものを矯正するのには大変な努力と、ある意味での運が必要だ。マンガみたいな現実から、ついこの前まで俺を取り巻いていた『日常』を奪還しようとしたところで、それもまた無駄なのだ。  じゃあ歪んだ世界はどうなる?   そこで浮上するのが、人間の適応能力だ。人は慣れる。どんな恐怖だろうが享楽だろうが、ほんの少しの間その湯につかれば体温は自動的に、無意識的に矯正され、やがて順応する。  そして、人間は忘れる。  痕跡や傷跡は残っても、人は忘れるし、忘れていかないと社会は回らないんだろう。どんな悲劇でも喜劇でも、人間はそれに徐々に慣れ、それが新たな日常となり、やがて歪み自体を忘れてしまう。恐ろしい話だ。  でも、と俺は思う。  多くの人間が忘れ去ってしまう事を、記憶に留め、或いは記録する人間も必要なのではないか、と。  俺は忘れたくない。俺の人生に起こる様々な悲喜劇、または喜怒哀楽からはみ出した感情全てを、俺は覚えておきたい。  しかし俺も人間だからして、どんなに強く誓いを立てたところで、多分慣れるし忘れる。  では俺に何が出来るかというと、恐らく『記録する』事なんだろう。 「『Carry That Weight』だよ」  いつだったか、アイツが言っていたのを思い出す。 「重荷は背負うべきだよ。俺も、おまえもね」 1.  虫って単語の定義を辞書で調べると、単なる昆虫だけじゃなく色んな意味が出てくる。『〜の虫』とか『虫の知らせ』、『虫の居所が悪い』等々。でも大抵の人間は虫と聞いたら昆虫、もっと言えば害虫をイメージする訳で、そんなネガティブな意味を想起させるものを子供の名前に入れるだなんてウチの両親は本当にどうかしている。  そりゃね、蛍(ほたる)は昆虫の中では比較的イメージの良い部類ではあるよ。夏の風物詩、暗闇で輝く神秘性、ある種のロマンチシズム、大いに結構。だが所詮虫は虫だ。二十二年もそう呼ばれてるんだからもう慣れたし、『ほたる』っていう響き自体はそうそう悪いもんじゃないと思う。『ケムシ』に比べたら数万倍好印象だが、残念ながら小学六年生まで俺は『ケムシ』だった。  或いは『ミカちゃん』。これは頂けない。御神楽(みかぐら)、で『ミカちゃん』。ひねりがなさ過ぎるし何だか小馬鹿にされたような気になる。『ミカ』っていう女の子なら良いだろうよ。でも俺は男で、そりゃガリだしチビだしいわゆる男らしさは足りないかもしれないけど、それを気にしてるだけに『ミカちゃん』呼ばわりには未だ抵抗がある。 「だからミカちゃん、もう来なくていいから」  井上さんにそう言われた時も、俺はやっぱり小馬鹿にされたように感じた。 「前々から言ってたから分かるよね? 近藤君もだいぶ慣れてきたし、もうミカちゃんの仕事はないんだ。今月分のお給料は日割りにして振り込むからさ。もう帰っていいよ」  新宿駅近くの雑居ビルの一室、オフィスと呼ぶには雑然とし過ぎたその空間に、井上社長の少し間延びした声が響いた。近藤を含む他の社員さん達は、自分の仕事に没頭するふりをしつつ俺と井上さんをチラ見していた。やがて井上さんは自分のデスクに戻り、山積みのフライヤーやら書類やらに目を通し始めた。俺は半ばぼんやりとしたまま、壁一面のCDラックを背にそれを見ていた。 「御神楽さん、後ろ失礼します」  おずおずと近藤が言ってきて、CDを漁り始めた。何かのレビューで必要なのだろう。 「あの、井上さん、トバモリーズ・ランチの記事、チェックお願い出来ますか?」  少し俺の方を気にしながら女性社員が井上さんに声をかけ、推敲作業を始めた。他の連中も、銘々に仕事をこなしている。サイトのレイアウトを変更してる奴、ヘッドフォンを装着して原稿を書いてる奴、CDのライナーノーツ片手にメモを取ってる奴。皆仲間で、昨日までは俺もその一員として動いていたんだけど。  クビか。  その事実を受け入れたら何だか笑えてきて、でも同時に怒りも覚えて、俺は未だCDを漁る近藤を押しのけて一枚のCDを引っ張り出した。  困惑する近藤には見向きもせず、そのCDを床に叩き付ける。  CDのプラケースが割れ、ディスクが吹っ飛んだ。  そのディスクを、右足で容赦なく踏みつける。二つのきれいな半月となったそれは、もはやゴミでしかない。 「ちょっと、ミカちゃん」  井上さんが迷惑そうな顔を向ける。 「お世話になりました」  俺は深々と一礼してからオフィスを出た。  エレベーターではなく非常階段の扉を開け、二階の喫煙所に降りるまでにはタバコとライターを取り出していた。一本くわえて火を付ける。 割ってやったCDは、ミューズというバンドのデビューアルバムで、俺が寄付したものだった。英国オンリーのサンプル盤。結構レアだった。タイトルは「ショウビズ」、笑える話だ。 灰皿に灰を落としつつ、俺は何となく曇った空を見上げた。  この一年半、それなりに頑張ってたつもりだったんだけどなぁ。軽く頭を掻いて、煙を吐き出す。  株式会社サリアルは、音楽、主に国内外のロックミュージックに関する様々な情報を、ネット上で発信する小規模な会社だった。大手じゃないから大物ミュージシャンのインタビューなんかはめったになくて、その代わりどこよりも早い情報やライブレポを心がけていた。  俺はこれまでアルバイトとしてオフィスで雑務をこなしたり、たまに記事を書かせて貰ったりして働いてきた。音楽が好きで文章を書く事が苦にならない俺にはうってつけの仕事に思えたし、井上社長や他の社員さんとも上手くやってるつもりだった。少なくとも俺は。  正社員にならないかと誘われた事もある。確か去年の夏。でも俺はまだ、社会の歯車の一つとして機能するのは時期尚早だと思い、或いは歯車の一つになってしまう事が恐くて、丁重に辞退した。  来年度は分からないよ、とは、確かに前から言われていた。俺は真面目に働いてたけど、ライブを見に行く日は早退する事が多かったし、フルタイムでもなかった。結局井上社長はこの不況の中、ぷらぷらしてる高卒の腐れフリーター(略してKF)の俺を切り、ちゃんとした大卒の近藤を正社員として雇う方が得策だと考えたのだ。まったく、あまりにもロックらしからぬ展開だ。  灰色の雲が浮かんだ空は今にも小雨が降り出しそうな顔をしていた。四月も半ばだというのにこの寒さは何だ。俺は腰に巻いていたパーカを羽織り、タバコを捨ててから階段を下りた。  そして駅への道すがら、自分がまだ『ケムシ』だった頃を思う。  首都圏と呼ぶには恐れ多い僻地、現柚ヶ丘(ゆずがおか)市がまだ田んぼしかない町だった頃、俺の通っていた柚ヶ丘小学校は大いに荒れていた。  当時小学五年生だった俺は、中学受験の為に塾に通いつつ、学校では大半の連中がそうだったように、『児童会』メンバーを恐れて過ごしていた。  学校の児童会とか生徒会っていうのは、学内で実質的な権力を握る者がなるものだと、幼心に俺は思っていた。だから中学に上がって、品行方正で『ガリ勉』と揶揄されるような奴が嬉々としてそれらに立候補するのを見た時はカルチャーショックを覚えたもんだ。  当時柚ヶ丘小学校の教頭だった岩井は、その年の児童会を『過去二十年で最悪のメンツだった』と後に語ったらしい。児童会長の火野さん(未だにさん付けしてしまう)はヤクザの親と兄を持つ非行少年のサラブレッドだったし、他にもわがまま放題に育てられた地主の息子やら、レディース(当時はまだ居たんだよ)予備軍みたいなおっかない女子が居て、彼らは名札に児童会バッジを付け、誇らしげに学校内を闊歩していた。  それを考えると、書記の莇(あざみ)良一は、何の後ろ盾もなかったと言える。  アザミは火野さんの取り巻きではなかったし、平凡なサラリーマンの父親と専業主婦の母親、地元の公立中学に通う姉を持つ、ごくごく普通の小学五年生だった。そんなアザミが児童会入り出来たのは、四年生の時の『クラクション事件』という功績があったからだろう。 「だって面白かったんだぜ、あの車の音」  教師の緊急会議とPTAの集会の合間、アザミは悪びれもせずに言って笑った。  俺らの通学路には一部狭い路地があって、教師や親からは、そこを通る時は注意しろと常々言われていた。俺は朝早く登校していたから事件をこの目で見た訳ではないが、アザミはそこで危険な遊びを始める。  アザミの登校時に、毎朝同じ車が通っていたらしい。白い車で、運転手は三十代の女性。今考えると同情すべき存在だ。アザミは道の真ん中を歩いていて、その女性はクラクションを鳴らした。その音が『マヌケで面白かった』から、翌日からアザミは彼女の車が来ると道路に飛び出すようになった。車は急ブレーキをかけ、クラクションを鳴らす。その音を聞いてアザミは笑い、他の生徒も嘲った。その行為は一ヶ月以上続き、最終的に女性が学校に怒鳴り込んで来た頃には、アザミ達は道路に座り込みまでしていたらしい。  女性はアザミの所為で会社の会議に遅れただとか、毎朝恐くて運転が苦痛だとか、それでも通勤にはあそこを通るしかないのだとか、あのガキを殴らせろだとか、とにかく興奮していたらしい。すぐさまアザミの両親が呼び出され謝罪したらしいが、アザミは前述のように反省の色を見せず、女性の強い要請もあり、結局通学路が変更された。その件で、莇良一の名は校内で一躍有名になった。 page: 2 第2話 2.  新宿駅に着いて、これからどうしようかと考えた。このままアパートに帰って泣き寝入りするのも嫌だし、誰かに愚痴ってカラオケにでも行きたい気分だった。携帯を取り出して適当にアドレス帳を眺める。文彦のメアドが表示されて一瞬メールしようかと思ったが、アイツは大学に上がったばかりで色々忙しいはずだ。誰かヒマな奴は、と考えてぱっと浮かんだのがリュウスケだったので、俺は今から遊べないかとメールした。どうせアイツはヒマだ。返事はすぐに返ってきた。 『ちょうどヒマでどっか出ようかと思ってたとこっすよ。どこで会います? っていうか蛍さんバイトは?』  俺はクビになった事実を簡潔に述べ、上野で会えないかと打診した。返事が来る前に山手線に乗り込む。平日の午後二時半、車内は空いていた。 『上野でOKっす。いつもの改札に居るんで!』  了解メールを送り、俺はごみごみした東京の街並みを眺めながらまた昔の事を考えた。  俺は典型的ないじめられっ子体質で、チビで、運動神経が悪く、成績は良く、要するに『ケムシ』だった。  でも今考えるといじめられる原因は俺にもあった。塾に通っていたから成績が良いのは当然だったが、それを鼻にかけるところがあったし、他の連中を見下す気があった。  ある日人体模型とホルマリン漬けの生物しか居ない理科準備室に閉じ込められた俺は、三時間後に担任教師に救出され、逆に説教を食らった。 「確かに御神楽君は運動以外何でも出来るけど、それを自慢しちゃダメよ」  俺を閉じ込めたのはクラスの女子群で、そいつらは別の教師に説教されていたが、ニヤニヤと笑うばかりで反省はしていない様子だった。それ即ち、これからもタチの悪い行為が続くであろう事を示唆していた。  俺は頭が痛いと嘘をつき(そういえば仮病もこの頃覚えた)、職員室を出て昇降口に向かった。すると下駄箱の中に紙切れが入っていた。 『あんまり調子に乗ると、困るのはケムシだぜ』  どう見てもアザミの字だった。何しろ教室の後ろの壁には習字やら作文やらが常に貼ってあるのだ、俺にはすぐに分かった。  あのアザミが、俺ごときに言葉を。  俺は驚きと戸惑いと喜びを同時に味わっていた。  ここはアザミの学校であってアザミはその頂点であって、底辺にうじうじと生息していた俺にとってそれはもはや啓示だった。  アザミの言う事は絶対だ。  そしてその翌日から、俺は態度を改めた。ガキなりにだから完璧ではなかったかもしれないけど、それでもガキなりに必死に。幸か不幸か、いじめは徐々に軽減されていった。  アザミがどういうつもりであの紙切れを寄こしたのかは分からないが、俺はアザミに助けられたように感じた。事実、そうだった。救われた、と言っていいかもしれない。  岩井教頭は火野さんが児童会長だった年を最悪と評したが、俺ら児童からすれば、火野さん卒業後、満を持して莇良一が児童会長に君臨した一年の方がよほどスリリングだった。  そりゃ火野さん達は恐かった。廊下で目が合っただけで暴力を振るうような連中だったし、財布を持ってた生徒は俺も含めて全員カツアゲに遭ったはずだ。  火野さんの暴力は分かり易かった。でもアザミは違ったんだ。  アザミは声変わりが早かった。クラスで名前を呼ばれると一人だけハスキーな声で返事をし、それは他の男子の羨望の的となった。  それにアザミは火野さんのようなださい格好はしなかった。小遣いが多かったのか(奴はカツアゲだけはしなかった)、都内に出て古着を買い、児童向けの運動靴ではなくナイキやコンバースを履いた。他の男子はすぐさまそれに倣った。  下着の件は今でもよく覚えてる。当時まだ皆が白ブリーフを履いていた頃、アザミだけは流行り始めたトランクスを履いていて、体育の時間に体操着から裾をはみ出す、という流行を生んだ。ウチの親はそういう事には無頓着だったから、俺はチェックのシャツもコンバースもトランクスも買い与えられず、結局俺の白ブリーフは根性の悪い女子に火あぶりの刑に処され、股がすかすかしたまま帰宅した事がある。まったく、いい迷惑だった。  火野さんとアザミの何が違ったって、火野さんが暴力による恐怖政治を行っていたのとは対称的に、アザミは全校生徒の憧れであり、敬愛と畏怖を同時に抱かせる、稀代のヒーローだったって事だ。  仲間と三人で改造エアガンと爆竹を持って町役場に特攻した時も、体育館の緞帳をバタフライナイフでアーティスティックに切り裂いた時も、児童に暴力を振るう悪徳教師の不倫を全校集会でバラした時も、皆、わくわくしながらそれを見ていた。  アザミは次に何をやってくれるだろう?  全校の誰もがそう思い、アザミに期待し、アザミはそれに見事に応えていった。俺も、その一人だった。  実際、アザミは人の使い方が上手かった。そいつが所属するグループや見た目で人を判断せず、能力のある奴ならどんどん仲間にした。一人で家に籠もってエアガンを改造するのが趣味だった向井なんかが良い例だ。何かの弾みで接触を持ったアザミは、向井を自分達の専属武器商人に認定した。向井は元々大人しい奴で、ちょっとぽっちゃり気味の、どちらかというと暗いタイプだった。一部女子には不気味だとも言われていた。それが、アザミが気に入った途端、周囲の態度が一変した。結果的に向井は調子に乗りすぎて自滅するんだが、それはアザミの責任ではない。  そんな感じで、アザミは着々と学校を支配していった。  上野駅しのばず改札を抜けると、ワックスを付け過ぎた髪をいじるリュウスケが居た。 「よう、呼び出して悪いね」 「いやいや、どうせ俺もヒマだったんで。つかクビってマジすか?」 「マジだよ、残念ながらね」  俺とリュウスケは同時に歩き出した。 「とりあえずタバコ吸いてえ。あの喫茶で良い?」 「いっすよ。俺もあの店好きなんで」  上野には古き良き時代の面影を残す純喫茶が多い。俺とリュウスケはアメ横を抜けて目当ての店に向かった。 『COFFEE & MUSIC 城』  店先にはそれだけ書かれた小さな看板があるだけで、店は地下にあるから大抵の通行人はこの純喫茶の存在にあまり気付かない。  地下一階に降りて木製のドアを開けると、いつも通り客の少ない店内が一望出来た。昭和にオープンしたこの店は、開店以来内装を変えていないらしい。適度に薄暗い照明、表面の破れたソファ、壁にはレトロなステンドグラス、何よりリーズナブルな価格。オシャレな若者が行くカフェなんかとは大違いの時代錯誤な雰囲気を、俺は気に入っていた。  大きなシャンデリアの下の席が、俺の定位置。リュウスケと共に腰を下ろすと、顔なじみのウエイターが水を運んできた。 「こんにちは、いつもの紅茶ですか?」 「はい、お願いします」 「あ、俺カフェオレで」  ウエイターは笑みを浮かべて頷き、厨房へ向かった。 「最近蛍さん、何か記事書いてましたっけ?」 「あー、どうでもいいバンドのどうでもいいリリース情報書いたわ。アレが最後の仕事ってのも、俺のダメ人間ぶりを遺憾なく発揮してて良いと思うけどな」  自嘲的に言うと、リュウスケは眉をハの字にしてまた髪をいじった。コイツは人の話に感情移入し過ぎるタイプだ。悪い奴ではないけど、大抵損な役回りに当たる。今もまるで自分が職を失ったかのような絶望的な顔をしていた。  リュウスケとはネットで知り合った。ロックリスナーの為のSNS(ソーシヤル・ネツトワーキング・サービス)『サングレール』で、俺が書いたライブレポにコイツがコメントをくれたのが最初。音楽の趣味も合ったし、話していく内に家が近い事が分かって、すぐつるむようになった。リュウスケは大学二年生だったが、ろくに学校に行かず、居酒屋でバイトしては音楽とファッションに金を注ぐ、典型的なダメ学生だった。 「でも蛍さん、これからどうするんですか? 仕送りとかないって言ってましたよね。ヤバくないすか?」 「まあ、結構ヤバいな。ちょっとだけど貯金はあるから、それが尽きない内に次のバイト探すわ。まだどんな職種かは決めてないけど」 「俺、蛍さんの文章好きだから、ライター系推しますよ」 「ありがと、俺もそれが一番だと思うけどね」  それからしばし話し込み、盛り上がってきた俺らは城を出てカラオケに行く事にした。  小雨が降っていた。雨のアメ横ほど歩きにくい道はない、と俺は思う。目抜き通り沿いのカラオケ屋に入る。リュウスケのバイトの都合で一時間半だけだったが、俺は敢えて絶叫系の曲ばかり歌い、リュウスケも応戦した。バカみたいに大声を出すのは、今の俺にはなかなか効果的な事だと思えた。結局、会計の頃には俺もリュウスケも喉が潰れていた。 「悪いな、なんか付き合わせちゃって」 「いっすよ、別に。楽しいですし。それにこの前は俺も蛍さんに泣き言聞いて貰いましたしね」 「ああ、アレね」  俺は軽く笑った。先週だったか、女にフラれたリュウスケに一晩中付き合った。勿論過去にもそういう事は何度もあった。コイツは顔やスタイルより髪の毛で人間を見る。髪フェチ。ショートだろうがロングだろうが、髪質・髪型が好みだとすぐ惚れる。内面なんか見ないからいつもフラれる。そんなリュウスケ当人は痛んだ髪にワックス付けまくってるんだから、まったく笑える話だ。 「じゃあ俺バイトなんで、ここで」 「了解、また連絡するわ」  駅前で分かれ、俺は中央口から駅に入った。俺のアパートがある井澄(いずみ)まで、電車で十分弱。俺はじりじりと痛む喉にミネラルウォーターを流し込んで電車に乗り込んだ。  当時柚ヶ丘小学校の六年生の間で日常的に行われていた遊びは、今考えると結構危険だったかもしれない。まあザリガニ釣って爆竹を突っ込んで火をつけるくらいならいいが(いいのか?)、近くを流れる川に下級生を突き落としたり(俺もやられたが)、ピンポンダッシュならぬピンポンクラッシュ(エアガン連射で破壊)、コンセントにシャーペンの芯を指して感電ごっこ(アレは恐かった)、なかなかデンジャラスだったかな、と今では思う。言うまでもなく、全てアザミが始めた事だったが。  中でも覚えてるのは『トンボ焼き』の件だ。  その日塾がなかった俺は、帰り道でアザミとその取り巻きに囲まれた。何事かと身構える俺に、アザミは言った。 「ケムシ、おまえは頭良いから分かるよな?」  他の連中はニヤニヤしていたが、アザミはそうではなかった。 「問題。トンボの羽根を燃やすとどうなるでしょう」  アザミはそう言って、足をもいだトンボを突き出してきた。  俺は、普通に燃えるんだろう、と答えた。 「では正解の発表です。ケムシ、これ持て」  俺は恐る恐る、身をよじらすトンボを指先で掴んだ。くにゃりと嫌な感触がした。アザミが素早くジッポを取り出して、羽根をあぶり始める。  すると羽根は煙を出して燃えたりせず、ビニールのように溶けてしまった。俺は素直に驚いたが、他の連中が、 「アザミ、不正解者はどうすんの?」  とか言い出して、結局俺はペナルティとして六人分のランドセルを担がされて歩いた。歩き出して初めて、アザミの足下に千切られたり燃やされたりした大量のトンボに気付いた。  電車の中でほとんど沈みかけた夕日を見詰めながら、俺は少し項垂れた。自分の状況が悪くなるとあの頃を思い出して感傷にふける悪い癖。俺はちっとも卒業出来てない。あの小学校、あの一年間、あのアザミから。  成長してないな、と我ながら思う。そりゃ俺はもうケムシではないけど、こうして一人で居るとどうも孤独を感じてしまって、何かが足りないような気がするのだ。何が足りないのかは分からないけど。  電車が停車してドアが開く。風に乗って白い蝶々が車内に舞い込んできた。他の客も思わず携帯やらその他電気機器から視線を上げ、見とれるようにそれを目で追う。  アザミはアレにも火を付けるだろうか。  卒業式の事はよく覚えていない。  県内トップレベルの私立中学に合格した俺は、完全に気が抜けていた。親や塾の講師にたきつけられて都内の有名校も受験したが、結果は惨敗だった。  俺は卒業式に黒のスーツを着て行ったけど、他の生徒は皆地元中学の制服だった。深緑のブレザーの中に一人だけ黒。それが少し、嫌だった。  最後のホームルームで、担任の若い女教師は半泣きになりながら生徒一人一人に声をかけていった。自分が何を言われたかは忘れたが、アザミへの言葉ははっきりと覚えている。 「莇良一君、貴方の所為で私は何度も教師を辞めようと思いました。でも貴方のおかげで見えてきた事もたくさん、たくさんありました。貴方はどこへ行っても大丈夫。立派になって、先生を喜ばせて下さい」  しかし彼女がアザミの将来を知る事はなかった。卒業式から一週間後、恋人を寝取った女を刺して、自分も死んだからだ。  その事件はちょっとしたニュースになったし、ウチの学区内にも取材が来たりした。俺は身近な死を体験した事がなかったから、現実感がないまま葬儀に出たものの、ただただその行事を眺めるばかりだった。家に帰ってテレビを付けると、元クラスメイトの女子が泣きながら事件を嘆いていた。その後ろで、アザミは薄ら笑いを浮かべて女子を見ていた。  中学生活はひたすらに退屈だった。レベルの低い僻地の小学校ではトップだった俺も、県内から集った優等生達には太刀打ち出来ず、成績はどんどん落ちていった。  カルチャーショックは凄まじかった。男子は君付け、女子はさん付けで呼ぶ規則。何の疑問も抱かず従う生徒達。少しでも制服を着崩すと不良扱い。髪を染めれば停学。タバコなんてもってのほか。道ばたにゴミを捨てれば『御神楽君、これ落としたよ』なんて善意丸出しの顔で拾ってくれるクラスメイト達。50メートル走で十秒台でも『次、頑張ろうね』と励まされる。  なんだこのぬるま湯は。  いじめを受けなくなったのは良かったが、俺は小学生の頃とは別の理由で仮病を多用するようになった。アイツらと同じ空気を吸いたくない、アイツらと同じになってはいけない、そんな強迫観念すら抱いていた。  一年の二学期にクラスメイトの男子と口論になった際、興奮した俺は思わずカッターナイフを取り出して相手を威嚇した。しかしその瞬間相手は逃げ出してしまい、周りの生徒が一斉に引いていったのをよく覚えている。学級委員の女子が担任教師を呼び、親が呼び出されて注意を受けた。  小学校の頃はカッターを取り出せば相手はエアガンかナイフで迎撃してきてたのに、何なんだここは。  その日から、俺は『普段は大人しいけどキレると恐い奴』というレッテルを貼られた。おかげで数少ない友人も離れていった。部活動もしていなかった俺は、図書館と保健室に入り浸るようになり、音楽にのめり込みながら空想の世界で理想を描き続けた。  エスカレーター式で高校に上がると、同級生でも少しワルぶるような連中も出てきた。髪を染めてスプレーでセットし、指定のベストではなくラコステを着用、授業をフケてゲーセンへ。女子で言えば、この頃ルーズソックスが流行っていた。スカートを短くして足を露出し、ファッション雑紙(勿論校内への持ち込みは禁止だ)をわざとらしく広げて、下世話な声をあげる。面白い事に、大半の生徒が連中を『不良』と呼んだ。でも俺は、そんな彼らが帰りの電車内で必死に勉強してるのを知ってたし、地元はもっととんでもない事になっていたから、もう笑うしかなかった。  結局、短い高校生活で俺が得たのは村雨(むらさめ)カズヤという存在だけだった。  一年の三学期に都内の進学校から転校してきたカズヤは、控えめに表現しても『天才』だった。別に編入試験で全教科満点を取った事だけじゃなく、人間として、俺を含む愚民とはどこか一線を画しているように見えたのだ。  病的に細い身体(事実、病気だった訳だが)にサイズの合ってない学ランを着たカズヤの存在は俺も知っていた。どいつもこいつも『天才って、本当に居るんだな』等と言っていたからだ。具体的にはその異様な記憶力が挙げられる。自分の連絡ミスで実験準備が出来ていなかったクラスに逆ギレした化学教師を、カズヤがその教師の台詞を丸ごと暗唱して言い負かした話は有名だった。小学五年の時点で大学卒業レベルの学力を身に付けていたカズヤは、教師が何か間違った事を言うと、どこか同情気味に、それを正していたらしい。担任教師ですら、常にカズヤの顔色を伺っている節があった。  でも、ある意味でカズヤは孤独だったんだろう。自分に出来る事が、何故他の人間に出来ないのか。天才天才と言われ持ち上げられたカズヤは高い所で独りだった。同年代にまともに話せる相手もおらず、様々な分野の専門家達とディベートに明け暮れる日々は、カズヤにとってはさほど面白いものではなかったのかもしれない。  俺と同じく保健室の常連だったアイツが声をかけてきてくれたのは、本当に幸運な事だったと思う。 「おまえ、ここに所属してないね」  藪から棒に、カズヤは言った。ぎょろぎょろとした大きな眼は何故か濁っているように見えて、錆の利いた美声が不似合いなくらいだった。 「何だよ、それ」 「自分の居場所は他にあるって感じがする。でも手に入ってないんだろうな。だからこんな所に居るんだ」  俺はギクリとしてカズヤの顔を見た。青白い顔に、ニヒルな笑みを浮かべている。 「面白い奴だ。御神楽、だっけ。覚えとくよ」  カズヤはそう言って握手を求めてきた。思わず握り返した手の細さにぞっとした。  それから俺はカズヤとつるむようになる訳だが、じきにカズヤは病院に入り、俺はまた一人になる。  教室の片隅で居眠りしながら、俺は『こんな学校アザミがぶっ壊してくれればいいのに』と希求していた。勿論、叶う事などなかった。それでも俺は毎日、そう祈り続けたんだ。  井澄駅で下車した俺は空腹を覚え、行きつけのラーメン屋に入った。こんな下町の古いラーメン屋なのに、何故か店主をマスター、奥さんをママと呼ぶしきたりがある店で、柚ヶ丘を出て井澄に暮らすようになってからずっと世話になっている。  俺の他に若い客を見た事はない。店内は演歌歌手のポスターが何枚もでかでかと飾られていて、客は中年の労働者が主だった。俺は若干浮いていたが、今では他の常連さんとも仲良く世間話をするようになった。 「あら、今日は早いわね」  いつも通り化粧の濃いママが笑顔で声をかけてくる。 「実はバイトクビになったんですよね」 「え、ホント? アレでしょ、あたしはよく分からないけど、インターネットの」 「そうです、それです。クビになっちまいました」  勢いでカウンター席に座った俺だったが、着座した瞬間少し後悔した。話し好きのママに色々聞かれるであろう事は明白だったのに、なんでクビになった事を言っちまったか。  しかし俺の心配は杞憂に終わる。俺がつけ麺をオーダーすると、常連のサラリーマン集団が来店し、店が忙しくなったからだ。  出されたつけ麺を食いながら、俺は演歌歌手のポスターの上にあるテレビを見上げた。ニュース番組らしく、キャスターが何やら神妙な面持ちで話していた。 『同様の手口による犯行は今回で三件目となりました。警視庁は全力をあげて捜査にあたっており、一刻も早い犯人逮捕が望まれています』  画面の右下には、 『東京 またも髪切り事件 同一犯か』  という文字がおどろおどろしいフォントで踊っていた。  俺はあんまりテレビを見ないけど、『髪切り魔』の事はネットで見て知っていた。被害者は頭を殴られて、意識を失っている間に髪の毛を切られるんだそうな。被害に遭ったのは女子高生やら主婦やらで、確かこの近くでも犠牲者が出てた。一人は殴られたまま意識が戻っておらず、無差別傷害事件として結構話題になっている。  じきにニュースは特集コーナーに移る。今都内のデパ地下で人気のスイーツ情報は、特に俺の関心を惹かなかった。つけ麺を完食した俺は、ママに声をかけて650円をカウンターに置き、店を出た。  俺が最後にアザミに会ったのは、高校一年の冬休みだった。  無論それまでも奴の噂は聞いていた。中学では別の小学校でリーダーだった奴と熾烈な争いを繰り広げた事、中二でアザミとそいつが同じクラスになった所為で五月に異例のクラス替えがなされた事、結局アザミが勝利して今度は火野さんと対立し始めた事(その直後に火野さんは少年院に入った)等々。  しかし高校受験が始まると、アザミを慕っていた連中も自分の将来を気にし始めたらしい。とりあえず教室でタバコを吸うのはやめようとか、柚ヶ丘中央駅の旧駅舎(おクスリ取引所)には行くのはよそうとか、そんな具合で。  俺はたまに電車で一緒になる連中から話を聞いてただけだから、アザミがその後どうしたかは知らなかった。地元の柚ヶ丘南高校に行くらしい、というのが最後の情報だった。  その日俺は予備校をサボって遊んだ帰りに、下り電車に乗り込んだ。何となく手近な吊革を握ると、前に座ってた男が声をかけてきたんだ。 「おまえ、ケムシ?」  声は全く変わってなかった。金髪にしてパンキッシュな服を纏っていても、色白でつるつるだった肌にニキビが出来ていようと、それは間違いなく莇良一の声だった。 「何だよおまえ、そんなメガネかけてさ。相変わらずチビだな」  中学に入ってから近視が悪化した俺は、高校に入ると派手なメガネをするようになっていた。そしてアザミの言う通り、身長は思ったほど伸びなかった。  俺は初恋の人と再会したかのように緊張しながら、でもそれを悟られぬように振る舞った。 「おまえこそ何そのニキビ。しかもその格好。今時パンクかよ」 「ケムシの台詞とは思えねぇな」  アザミは口角を上げて笑った。俺はたまらなく嬉しかった。 「南高に行ったって聞いたけど、学校どうよ?」 「とっくに辞めたよ。学校なんてもううんざりだ。自分のしたい事をするよ」  少し感傷的な色を瞳に浮かべながら、アザミは言った。  感傷的?  かつては恐れられ、同時に皆が惹かれていた人物、そいつが今、自分の目の前で孤独に浸っている。そう、孤独に見えたのだ。あの莇良一が。  俺は言いようのない違和感を覚えつつ口を開いた。 「したい事って?」 「んー、とりあえず柚ヶ丘出たいわ。都内でなんか探す」 「親は?」 「知らね。今姉貴がグレてて大変だから、俺は放置」  そんな話をしている内に、あっという間に柚ヶ丘中央駅に着いた。  当時はPHSや携帯電話が少しずつ普及していたが、アザミは両方持っていないと言った。PCのメールアドレスも同様だった。 「バイト代入ったら携帯買うからさ、今度教えるよ」  そう言って、アザミは去って行った。『今度』までこんなにかかるなんて、思ってもみなかった。 page: 3 第3話 3.  井澄駅前通りで、俺はしばし立ち尽くしていた。  このままアパートに帰ったところで何がある?  ない。何も起こらないし、起こり得ない。  無職になった日に散財するのもどうかと思ったが、ちょっとくらい酒を飲んでも何の問題もないように思われた。  何の、問題も、ない。  俺は駅の反対側に出て、少し歩いた。個人経営の喫茶店や小さなスーパー、あんまり知名度のないコンビニ、年季の入った古本屋、レンタルビデオ屋等が並ぶ通りは、会社帰りのサラリーマンやその他労働者、或いは部活帰りの学生等で賑わっていた。  小さな本屋の隣にある『サイドニア』という店を目指す。今日はライブがある日だったかな、と考えた。正解を思い出す前に、店の看板が見えた。シンプルな電飾の下に、小さな黒板に書かれたカクテルのメニュー。チャージ代が書かれてないって事は、今夜はライブはないという事だ。  サイドニアは、昼間は普通の喫茶店、夜はバーになり、週に何度か生ライブをやる店だった。俺は狭い店内に入る。コンクリート打ちっ放しの壁、カウンター席が六つ、四人がけのテーブルが三つしかなくて、今はスーツ姿の中年男性二人がテーブル席に居るだけだった。俺は一番奥のカウンター席に腰を下ろした。ライブがある時はここが特等席。店内の様子が良く見えるからだ。しかし今日は普通のバー営業であるからして、俺は寡黙なバーテンにギムレットをオーダーし、店内に流れる音楽に集中した。ここのオーナーは本当はライブハウスかクラブやりたかったんじゃないか、と邪推してしまうほど、店内ではいつも趣味の良いロックミュージックを流していた。普通バーでヴェルヴェット・アンダーグラウンドはあんまり聞かないと思うが。  等と内心考えていると、バーテンが鮮やかな手つきでカクテルを差し出してきた。何かアテを頼もうかとメニューに視線を落とした瞬間、入り口の扉が開いた。反射的に入り口の人物に視線を投げる。  かなりの長身で、短い髪は栗色、サングラスをしている。高そうなレザージャケットを片手に持ち、店の壁に貼ってあるポスターに目を遣っていた。スカルリングをした細長い指がサングラスを外す。  心臓が跳ねて、耳が熱くなる感じがした。気付いたら口は半開きで、さぞかし間抜けな顔をしていただろう。俺は前髪を掻き上げて、冷静を装い立ち上がった。男が俺を見る。 「……ケムシ、か?」  懐かしいその声は俺の耳から頭に入って涙腺を刺激した。 「こんな所で何やってんだよ、アザミ」  声は震えていないだろうか。内心不安に思いながら俺は尋ねた。 「おまえこそなんでここに居るんだよ」 「近隣民だよ」 「マジかよ」  そう言い合いながら、俺らは一歩ずつ、慎重に、歩み寄った。  アザミがライトの下に立つと、その顔がはっきり見えた。ニキビの跡はきれいになくなり、高校の頃より痩せてシャープな印象だ。そして小学生の頃から変わらない、二重の大きな眼。でもあの頃みたいに不敵で余裕のある眼ではなく、何かに飢えている動物のそれに見えた。 「相変わらずチビだな」 「おまえこそパンクス卒業したのかよ」  俺らは笑い合い、カウンター席に落ち着いた。 「おまえ、あの私立校辞めたんだってな」 「ああ。なんか嫌になってさ」  語り出す俺らの前に、無言でバーテンがやってきた。 「ロングアイランド・アイスティー、ある?」  アザミが言うと、バーテンは頷いて奥へ引っ込んだ。 「この辺に住んでんだ?」 「うん、こっからすぐのボロアパートだよ。おまえは?」 「あー、今下北だけど、多分すぐ追い出される」 「は? 家賃払ってねえの?」 「オトナの事情ってやつだよ」  まるで自分が大人じゃないみたいな調子で、アザミは言った。 「俺、この辺あんま来ないんだけど、どうよ? 下町って感じは分かるけど」 「悪くないよ、俺的にはね」 「ふーん」  アザミの頼んだカクテルが出てくる。見た目は完全に普通のアイスティーだった。アザミはそれを軽くあおり、俺の眼を正面から見据えてきた。 「で、おまえは今、何やってんだ?」 「ライターまがいのバイト。もう過去形だけど」  アザミは肩をすくめて首を振った。 「俺が聞いてるのは、おまえが、今、何をしているかだ」  言葉に詰まる。  何も出て来ない。  アザミの大きな眼は、種類は違えどあの頃と同じ力があった。アザミは答えを要求している。そして俺は考える。考えて、帰結する。  俺は今、何も、していない。  沈黙が落ちた。サラリーマン二人組が店を辞していく。 「成る程ね、おまえもヒマ人か」  アザミが口角をきゅっと上げる。この笑い方も、昔から変わっていなかった。 「も、って事は、おまえもヒマ人な訳?」 「まあね」  そう言うアザミに自嘲的な様子は感じられなかった。 「……したい事、あったのか?」  俺は聞いてみた。電車で会った時の言葉を思い出したからだ。するとアザミは、あうーと唸って頭を掻いた。 「したい事ね、なかったんだ。今のところ、だけど」 「そうか」  また、沈黙が落ちた。今度は噛み締めたくなるような沈黙だった。店内に流れるヴェルヴェッツのノイズが鼓膜を突く。 「あのさ」  俺は若干の勇気と期待と覚悟を持って聞いてみる。 「小学校の時、おまえ俺の下駄箱に手紙入れただろ。アレなんで?」 「手紙?」  アザミが首を捻る。 「ほら、俺が女子に閉じ込められてさ、おまえが警告文みたいのをくれただろ」 「ああ」  思い出したのか、アザミはふんわりと優しく笑った。 「他にも酷い目に遭ってる奴は居たけどな、おまえは何つーか、大きな視点を持ってるような気がしたんだよ。いじめられっこは往々にして『なんで俺が、私がこんな目に』とか自己憐憫に浸りがちだ。でもおまえは違うように見えたんだよな。いじめられっことしての自分を相対化してるっていうか、上手く言えねえけど、とにかく勿体ない気がしたんだ」  アザミの言う事は、俺自身には全く自覚の無い事だったが、それでもケムシこと俺には、何だか嬉しい返答だった。  俺なんかが、あのアザミの目にとまっていたのか。 「おまえ、いつ柚ヶ丘出たの? 学校辞めた後?」  一人で内心興奮する俺に、アザミが聞いてきた。 「いや、高二で通信に移ったんだ。親は泣いたけどな。それからバイトして金貯めて、二十歳になる前にここに部屋借りたんだ」 「そっか、じゃあ二年くらいか。おまえ確か弟居たよな?」 「ああ、今私立の高校行ってる。親が『兄貴みたいになるな』っつって必死で教育してるらしいよ。そういうおまえはいつ家出たんだ?」 「電車でおまえと会った直後だよ」 「へえ。それから今まで、何してたの?」  俺に他意はなかったが、アザミは少し悲しげな顔をした。 「結構ヤバい事もやったけどな、色々バイトとか転々として、結局なんも実にならなくて、今や立派なダメ人間」 「奇遇だな、俺も今日バイトクビになったダメ人間だ」  薄暗い店内で、俺らは笑い合った。  俺は今、アザミと会話している。あの、莇良一と。それはにわかには信じられない事だった。動悸が続くのはアルコールの所為だけではないだろう。 「アザミさ、今向井とかと連絡取ってんの?」 「いや全く」 「中学の奴らは?」 「知らね。なんかあそこにずっと居ると不健康な気がしたんだ。あの町で生まれて、適当に学校出て就職して、あの町で結婚して、子供とか出来て、その子供もあの町で育つ。凄く閉鎖的で、俺は耐えられなかった。向井と中谷、結婚したの知ってる?」 「え、マジかよ」  中谷といえば学年で一番可愛い女子で、高校時代はモデルみたいな事もやってた子だ。それがあの向井と、ね。  それから俺らはしばし同級生の現状について語り合った。誰々は一流大学に行ったらしい、誰々は留学したらしい、岩井教頭は退職したらしい、とか、そんな感じで。  会話が途切れた時、俺は素朴な疑問を口にした。 「そういやおまえ、なんで井澄に居んの? 別に何もない所だろ」 「ああ」  アザミは片眉を上げた。 「ダチと会う予定だったんだけど、ドタキャンされてね。井澄に来るの初めてだったから、ぶらついてこの店入っただけ」 「へえ、この辺にダチ居るんだ」 「俺の人脈はバカにしない方が良いぞ」  冗談か本気か分からない口調で、アザミは言った。思わせぶりだったが、今はそこに突っ込むべきではないと判断した。  時計が九時半を指した瞬間、バーテンが目の前に立った。 「ラストオーダーとなりますが、何かございますか?」 「え、もうそんな時間か」  俺は反射的に時計を見る。 「別に俺は良いよ」  アザミがのんびり言った。 「じゃあ俺も良いです。出る?」 「そうだな」  アイスティーみたいなカクテルを飲み干したアザミが立ち上がる。サイドニアを出て、さっきより人通りの少ない道で、二人して立ち尽くした。 「閉めるの早いんだな、ここ」 「昼から夕方までは喫茶店だからな」 「そうなんだ」 「アザミ、これからどうすんの? 下北帰る?」  俺は少なからず焦っていた。何故かは分からないけど、ここで逃したら永遠に手に入らないような気がしたのだ。何を、かは分からないが。 「んー、まだ早いよなぁ。この辺で他にゆっくり出来る所ねえの?」 「チェーンの居酒屋ならあるけど、今の時期うるさいからな。あ、何なら俺んち来るか?」  俺は焦ってて、必死だった。ここでアザミとハイさよならなんて事だけは、絶対にしちゃいけないと思った。根拠はない。でもそういうフィーリングって、時に凄く重要だったりする。 「近いの?」 「徒歩四分」 「紅茶ある?」 「あるよ」 「じゃあ終電まで居させてくれよ。折角久々に会ったんだし」  そう言って、アザミはまた笑った。俺は軽く頭を掻いて歩き出した。この喜びをアザミに悟られないように。アザミが俺と一緒に居たいと言ってくれてる、それがどんな喜びか。 「ずいぶん冷えるな」  道すがら、アザミが言った。 「だな。異常気象はもうたくさんだよ」 「ケムシんちって」 「もうケムシは勘弁してくれよ、頼むから」 「じゃあミカでいいな。ミカんちって広いの?」  ちゃん付けでないだけマシか、と思いつつ俺は首を横に振った。 「狭いけど、テーブル片付ければ一人くらい転がれるよ」 「そっか」  とか言ってる内にアパートが見えてくる。二階建ての建物の古びた階段を上がり、突き当たりの部屋の前で足を止めた。 「一瞬待って。ゴミだけ片付ける」 「了解」  俺は鍵を開けて室内に入り、ざっとゴミやら灰皿やらを処理してからアザミを招き入れた。 「すげえ」  アザミの第一声はそれだったが、俺は何が凄いのか一瞬分からなかった。 「おまえ、音楽好きなんだな。こんなにCDとかレコード持ってる奴って初めて見た」  その言葉で、アザミの賞賛が部屋の天井まで届くCDラックと、その脇の段ボールにぶち込まれたレコードの量に対するものだと分かった。 「PCにはこの倍はデータが入ってるよ」 「マジかよ。バンドやってたのか?」 「いいや、俺は向いてなかったみたいだ。仲間も居なかったし」 「そうか」  アザミはすっかり感心した様子でCDラックと壁のポスターを見ていた。 「今日クビになったバイトがそっち系だったんだ。音楽ライターっぽい事やってたんだけど」 「へえ、良いね。つか、ほとんどがロックかパンクっぽいな。俺はそんなに詳しくないけど」  ラックに積み重なったCDを見てアザミが言う。 「うわ、本棚全部、音楽雑誌じゃねえか」 「おまえこそ高校の頃はパンクスだっただろ」 「ほんの一時期聞いてただけだよ。それにしてもすげえわ」 「褒めても何も出ねえぞ」  俺は苦笑してキッチンに向かう。 「紅茶で良いのか?」 「ミルクたっぷりで頼む」 「はいよ」  俺は来客用のカップに紅茶を煎れてアザミに差し出し、自分はペットボトルの水片手にベッドに座った。 「おまえは音楽聞かねえの?」  灰皿を引き寄せながら聞くと、アザミはうーんと唸った。 「そんなに積極的には聞かねえなぁ。俺、映画好きだから、そっち関連をたまーに。ビートルズは元々大好きだけど、サイモン&ガーファンクルとか、比較的最近のだとニルヴァーナとかレディオヘッドとかナイン・インチ・ネイルズとか」  俺は思わず笑ってしまった。 「莇良一らしからぬ王道っぷりだな」 「あ、でも」  アザミは思い出したかのように言った。 「ダチが勧めてくるのはちょいちょい聞くわ」 「へえ、例えば?」 「JポップとかKポップは苦手だけど、アレは好きだな、トバモリーズ・ランチ」  意外な名前に、俺は一瞬驚く。 「トバラ好きなのかよ。それはそれで意外だ」  トバラことトバモリーズ・ランチは、日本の若手では評価もセールスも他より頭三つくらい突出した、今最も注目されてるバンドだ。サリアルでも他のメディアと同じようにプッシュしてて、俺も関連記事を書いた事がある。 「ヴォーカルの北条(ほうじよう)、だっけ? アイツの歌詞はヤバいね」 「ヤバいね。厭世的だけどそれだけで終わってない。自己卑下しつつも毒を吐く。でも北条はギターも相当だよ。歌は言うまでもないけど」 「でもトバラのメンバーって、俺らよりちょい上くらいだろ?」 「確か二十三、四だったはず」 「なんか、それ聞くと悔しいよな」  それはおちゃらけた口調だったが、俺は思わずアザミを見た。その大きな眼には、何も映っていなかった。 「アイツらはああなのに、何も出来てない自分って何なんだ、とか時々考えると、えらく悔しくなる。あ、アイツらってトバラだけじゃなくてな」 「……分かるよ」  俺はタバコの煙を吐き出しながら頷いた。  トバラだけじゃない、今じゃ俺らより若いバンドがごろごろ出て来てシーンで活躍してるし、何も音楽に限った話じゃなくて、この年で既に何かを成し遂げてる人間ってのは確実に存在するんだ。俺自身、サリアルで情報を得たり記事を書いたりしながら、常々それを思っていた。俺は『悔しい』とまではいかず、『情けない』くらいで止まっていたが、アザミは違うようだ。 「焦るよな」  ラッキーストライクを取り出したアザミがぽつりと言った。眼を伏せてる分、真意が読めなくて、俺は少し戸惑う。 「まあ焦って自爆するよりは、地道に何かした方が良いんだろうけど。でも俺はなんも続かねえ」  アザミは少し自嘲的に笑った後、急にこっちを見た。 「ミカ、髪切り魔って知ってるか?」  その唐突な話題転換に、俺は一瞬ついていけない。 「あー、殴って髪切る奴だよな? 被害三件目だっけ」 「そうそう」  アザミは俺の顔を見据えて、ニヤリと笑った。 「その髪切り魔、俺らで捕まえね?」 page: 4 第4話 4.  結局アザミは終電で下北に帰った。  俺といえば、数年ぶりに莇良一と話せた事、あまつさえ連絡先を交換して『また近々会おう』と言われた事に興奮し、同時に職を失った事実に対する失望も相俟って、あまり眠れずに夜を過ごした。  髪切り魔を捕まえる?  聞き返した俺に、アザミはあくまで笑いかけていた。どうやって、とか、どうして、とか、そんな疑義を拒絶した笑みだった。  朝方になっても眠れなかった俺は、テーブルの上のラップトップPCを立ち上げ、ネットに繋いで髪切り魔について軽く調べてみた。  最初に被害に遭ったのは、隣町・北井澄の女子中学生、三日空けて二人目の江戸川区の主婦、彼女は未だ意識不明、そして昨日、田端在住の女子高生が髪を切られたという。北井澄っつったらここからチャリで二十分もあれば行ける距離で、文彦のアパートがある町だ。  無差別に人の頭を殴って髪の毛を切り、持ち去る。  どんな神経の人間がそんな所業を行うかなんて想像もつかなかったし、理解したくもなかった。  ネット上のニュース記事には、犯行が続く恐れが強い事、そして犯行がエスカレートするのではないかという危惧が書かれていた。  アザミが今何をやってるかは知らないが、警察でも探偵でもない俺らが、都内広域の無差別連続傷害事件の犯人を探し出すなんて、絵空事にしか思えなかった。  しかし、俺の脳の99パーセントが『絵空事だ』と言いつつも、残りの1パーセントは『でもアザミなら、アザミと一緒なら出来るんじゃないか?』と興奮気味にわめいていた。  結局寝付けたのは午前六時前だったが、俺の安眠を妨げる更なる乱入者が現れる事になる。  インターホンが鳴った。寝ぼけたまま時計を見たら正午過ぎだった。ジャージ姿のままドアの覗き穴を見ると、背広を着たハゲの中年男性と、三十代半ばくらいの男が立っていた。 「どちらさまですか」  茫洋としたまま声をかける。 「警察です。御神楽蛍さん、開けて下さい」  眠気もダルさも吹っ飛んだ。  警察? なんで俺んちに?  そんな疑念を抱きながら慌ててドアを開ける。 「お休み中でしたか、すみませんね」  ハゲた方が柔和な笑顔で言ったが、その眼は笑っていなかった。二人が提示した警察手帳は、恐らく本物だろう。 「どういったご用件ですか?」  恐る恐る尋ねる俺を、二人はまるで宝石を鑑定するみたいに見ていた。 「株式会社サリアルの社員、近藤秀行さんとはお知り合いですよね?」 「近藤? はい、同僚です。あ、昨日までですけど」 「昨日付で御神楽さんはサリアルを退職されたと伺いましたが」  ハゲの方はあくまで柔らかい口調だった。対照的に、若い方は威圧感たっぷりの低い声で喋った。 「そうです、退職しました。近藤がどうかしたんですか?」 「傷害事件に巻き込まれ、今朝発見されて現在病院に居ます」 「傷害、事件……」  呆然とする俺に、若い方が追い打ちをかける。 「近藤さんと最後に会ったのはいつですか」  威圧的で低い声で長身で俺を見下してる様子の刑事にそう聞かれ、俺はなにやら悪い予感を覚える。 「……昨日、サリアルのオフィスで会ったのが最後ですけど」 「何時頃ですかね?」 「二時前だったと思います。他の社員さんに聞けば分かると思いますよ」 「因みに昨夜十一時から午前零時の間は、どこで何をされていましたか?」  ハゲが笑ったまま聞いてきた。俺は言葉に詰まる。 「ああ、警戒しないで下さいね、便宜上伺ってるだけですから」  全く警戒心の解けない声音で若い方が言った。 「……十一時頃までは、友人とこの部屋に居ました。その後も、ずっとここで寝てて」 「成る程、ご友人というのは?」  ハゲた頭を撫でながらそう聞かれ、俺は眉を寄せる。 「今ここで名前を言う必要がありますか。彼は無関係ですよ。ついでに言えば、僕も」 「そうですか、失礼しました」  へこへこと頭を下げる刑事を尻目に階下に目を遣ると、隣のアパートに住む若い主婦達がこっちを見てひそひそと話しているのが見えた。向かいの木造アパートの三階の窓からこっちを見下ろしてる男も居る。 「ちょっと待って下さいよ、俺が近藤に暴力を振るったとでもいうんですか」  内心冷や汗をかきながら強気に言ってみたが、ハゲは曖昧に笑うだけ、若い方はあくまで俺を見下すだけだった。 「どうして俺んちに?」 「サリアルでお話を伺ったんですよ」  ハゲがにこにこしたまま言った。  俺はまたも呆然とする。  井上社長や他の社員さん達は、近藤が傷害事件の被害者になって、俺が犯人じゃないかと警察に言ったって事か? 近藤の所為でクビになった腹いせに、俺がアイツを殴ったとでも? 「お休み中失礼しました。またお話しを聞きに来るかと思いますが、よろしくお願いします」  頭を下げながら踵を返した二人に、俺は声をかけていた。 「あの」  二人が同時に振り返る。 「傷害事件って、近藤は何をされたんです?」  俺の素朴な疑問に、長身の男が端的に答えてくれた。 「頭を殴られて毛髪を切り取られたんですよ」  さっと頭が冷える。  二人の刑事が去った後、俺は素早くドアを閉め、部屋のカーテンを開けもせずソファに座り、タバコを一本取り出した。火を付けて、煙を吸い込む。  カーテンを開けるのが恐かった。隣のアパートの主婦達も、窓から俺を見ていた男も、他の連中も、よってたかって俺を犯人に仕立て上げようとしているように思えた。それは恐怖と怒りが毛糸になって編まれていくような感覚で、それはやがてマフラーとなり俺の首を絞める。  枕元に置いていた携帯が振動し、メールの着信を告げる。手を伸ばして見てみると、メールが二通。リュウスケと文彦からだった。 『おはようございます! 蛍さん、もう職探し始めます? まだだったら午後から遊びません?』  リュウスケらしい、いつも通りの文面だった。奴とカラオケに行ったのはほんの昨日の事なのに、その事実がえらく遠く感じられた。  もう戻れない。そんな妙な強迫観念すら覚えた。  俺は返事を書かず、文彦からのメールに目を通す。 『ミカちゃん、久しぶり。元気? 俺はやっと大学ってやつに慣れかけてきたところだよ。バスケのサークル入るかも。なんか自分がマジでリア充になりそうで恐いわ。恐いから今度遊ぼうよ』  コイツもコイツでいつも通りだった。高校時代からの付き合いで、未だに『ミカちゃん』呼ばわりしてくる唯一の男。リア充にでも何でもなればいいじゃないか。  俺は携帯を一度テーブルに置き、上を向いてタバコの煙を吐き出した。そして先ほどの刑事二人の眼を思い出す。  寒気がした。  俺は、髪切り魔だと、警察に疑われているのか?  軽い目眩と動悸を覚える。  別に俺は何もしていないんだから、『やってません』と堂々としていればいいだけの話だ。本当にそれだけの話。  だがあの刑事達の眼、そしてあのやりとりを見ていた連中には、どう映るだろう?  俺はタバコを灰皿に押しつけて消し、昨日聞いたばかりのアザミの携帯に電話をかける。  驚くべき事に、アザミはワンコールで出た。 『ようミカ、どうした?』 「アザミ、今警察が来た」  必要もないのに俺は声を押し殺していた。 『警察? なんでまた』 「俺、髪切り魔だと思われてるかもしれない」  一瞬、沈黙が落ちる。  そして俺はひと思いに言った。 「昨日の話、乗るわ。髪切り魔、捕まえよう」 page: 5 第5話 5.  籠原(かごはら)睦実はいつも通り午後三時過ぎに起床し、意識の覚醒と同時にベッドから腕を伸ばしてデスクトップPCの電源を入れた。本体がかすかに音を立てながら起動する間にベッドから出て、起動完了を知らせる電子音が鳴る頃にはパジャマを脱いでいた。さっと着替えてPCに向かう。右手でマウスを握り、左手で雑にカーテンを開けた。  先ずはメールをチェックする。二通のスパムメールのみで、睦実は少し悲しくなる。それからネットに接続し、ブックマークしてあるサイトやブログを巡回する。全てのサイトを見るとなるとかなり時間がかかるので、更新が頻繁な所だけをざっとチェックして終了した。今日も特に愉快な情報はない。  ようやく頭が動き出したので、部屋を出て一階のリヴィングに降りる。両親は仕事に行っている。例によってテーブルの上に食事が用意してあり、母親の書き置きがあった。 『午後だけでも、学校行けたら行ってね 母より』  睦実は鼻で笑ってサンドイッチを手に取り部屋に戻った。学校はとっくに終わっている時間だ。  キーボードにパンくずが落ちないように気を付けながらサンドイッチを食べる。右手でマウスを操作し、デスクトップにある『FSF』という赤いアイコンをクリックした。 『FSフロートを起動します』  新しいウインドウが開く。 『モードを選択して下さい』  そう表示が出て、『通常モード』か『3Dモード』かを選ぶ画面になる。睦実は迷わず通常モードをクリックした。以前3Dモードを何度か試したが、睦実のPCのスペックでは動作が鈍く、またフロートの世界を3Dで見るとたまに酔ってしまうからだ。 『FSフロートへようこそ!』  フロートの起動が完了し、行き先を選ぶ画面に進む。  ・邦ロック好きな十代のトループ ホーム  ・十代のチャットエリア  ・高校生のチャットエリア  ・トバモリーズ・ランチのトループ ホーム  ・読書好きな人のチャットエリア  頻繁に訪れる場所がサムネイル付きのボックスで表示された。  睦実はひとまず『十代のチャットエリア』を選択する。  すると画面がゆっくりと溶けるように渦を巻き、木々の生い茂る公園にベンチが幾つかある空間へと『ワープ』した。画面中央に透明の渦が出来て、やがてその渦は睦実の『アバター』となる。  アバターはどのユーザーも四頭身で、顔立ちや衣装は様々だったが、体型だけは皆おしなべてスリムだった。睦実のアバターは『むつ』というニックネームで、ショートボブの真っ赤な髪、白い肌とピンクの唇、衣装はライダース・ジャケットにスキニーのブラックデニムだった。  しかし残念ながら、現実世界の籠原睦実はそうではない。髪は黒くてごわごわしているし、色白でもなければ唇の血色も悪く、ニキビが顔中に出来ていたし、何より太っていてスキニーのジーンズなど履けた試しがなかった。だがフロートの世界においてそれは問題ではない。  チャットエリアでは他のアバター達がそれぞれ会話していた。チャットウインドウは画面右下にあるが、睦実はその隣の『バディ』というコマンドをクリックした。『友人』を意味するバディは、登録次第でいくらでも増える。睦実には七十八人のバディが居た。  バディのウインドウが現れる。現在オンラインなのは六人だけだった。平日の昼だという事を考えれば納得出来る人数だ。睦実は九州の高校二年生の男子(勿論、自称だが)、ライを選択する。 『ライさんのネストに移動します』  先ほどと同じように画面全体が渦を巻き、ライの『ネスト』が表示される。そこは緑を基調にした小部屋だった。ベッドやテーブル、椅子等の家具もあって、深緑色のソファには男性のアバターが座っていた。頭上に『ライ』と表示されているそのアバターは、銀髪で、タータンチェックのズボンに真っ黒なTシャツを着ていた。  ・ライ『お、むっちゃん』  ・むつ『今起きたー』  ・ライ『相変わらずだね(笑)。学校は?』  ・むつ『知らないよ。ライ君は?』  ・ライ『俺は早退〜』  ・むつ『人の事言えないじゃん』  ・ライ『まあね(笑)。むっちゃんはネスト作んないの?』  ・むつ『作りたいけどポイント全然貯まんなくてさ』  ・ライ『だよな。俺もキャンペーンの時ギリで作れたし』  睦実はアバターを窓際の椅子に腰を座らせて、しばしライとの会話を楽しんだ。彼もまた学校が嫌いらしく、昼間でもフロート上に居る事が多い。  睦実にはこういった友人が多く存在する。勿論七十八人全てのバディと親密な訳ではない。一度チャットしてバディ登録をしてそれっきり、というユーザーも多い。そして当然の事ながら、皆が皆睦実の望む時間にオンラインに居る訳ではない。皆、現実世界での生活がある。  FSフロートはネット上の仮想空間だ。  メールアドレスさえあれば誰でも簡単に登録が可能で、自分の好きなようにアバターを作成出来、様々な『エリア』でチャットやゲーム、トレード等が行われている空間だった。ユーザー層は、小学生から退職して時間を持て余している六十代まで多岐に渡る。  個人のウェブサイトが徐々に廃れてブログに移行し、更にミニブログへ移り、人々は好きなだけ喋る場所を手に入れた。SNSや各種動画サイトの存在も無視出来ない。しかしそうして自分が発信する場所が溢れ飽和した時、多くの人間が自然とこのフロートに移っていった。  公開はされないが基本的に本名と実際の住所を入力し、自分の好きなようにアバターの姿を変え、自分の好きなニックネームでいつでも誰かと触れ合える場所。現在『フローター』ことフロート登録者は国内外で七百万人を超えると言われている。  フロート内には『エリア』という場所以外に『トループ』と呼ばれる団体が数多存在する。例えば読書好きのトループ、電車マニアのトループ、学校別トループ等々、挙げていけばきりがない。各トループには『ホーム』という空間が設けられ、そこでチャットやトレードが可能だ。  ライとの会話にあったように、ユーザーが自分だけの場所を得たいと思えば、ポイントを貯めるか料金を払うかして『ネスト』を得る事も出来る。睦実が今居るのがライのネストだ。バディが多いユーザーは、自分のネストにバディを呼んで会話を楽しんだりゲームをしたり、またはファイルを共有する事も出来る。  フロートを運営するのは『フェローシップ・サービス』という会社で、フロートの成功で一躍その名を世間に知らしめた。元々数多きブログ運営会社だったフェローシップ・サービスは、勿論フローターにも無料でブログないしミニブログを提供していた。同時に、先述のようにフロートはファイル共有ソフトとアップローダーの機能も兼ね備えている。それぞれ利用にはポイントが必要だが、上手くポイントを貯めれば、実質的に何でもタダで出来る、それがFSフロートの謳い文句だった。  やがて七時前になり、ライが夕食の為にログアウトしていった。そして母親の帰宅が知れる。睦実はPCの液晶にカバーをし、ベッドに潜り込んだ。  階段を上がる足音の後、ドアが軽くノックされる。 「睦実、入っていい?」 「いいよ」  入ってきた母親の頭は、最近白髪が目立つようになってきた。自分が苦労をかけている所為か、とも思ったが、親が子供を心配するのは当然の事だ、とも思っていた。 「今日は何時に起きたの?」 「三時くらい」 「じゃあ学校は……」 「間に合わなかった」 「そう」  母親は軽く溜息をつき、頭を振った。 「無理はしなくていいけど、進級出来る程度には行った方がいいんじゃない?」  頭の中で必死に言葉を選んでいるであろう母を見もせず、睦実は適当に頷いた。 「夕飯はカレーだから、出来たらまた声かけるわね」 「いいよ、どうせ食べるの夜中だし」 「……分かったわ」  ドアが閉まり、母親が階下に降りていく足音が聞こえた。キッチンで彼女が料理を始めたのを確認してから、睦実は再びPCに向かう。  ライはしばらく戻ってこないだろう。睦実は、次によく話す大阪の女子大生のネストを訪れ、彼女と彼女のバディと共にチャットを楽しんだ。  十時過ぎにはライが戻ってきて、バディだけで盛り上がる『パーティ』を始めたと通知が来たので、それに参加した。  そして日付が変わる前に睦実はライのネストを辞し、ワープのコマンドを開く。行き先は決まっていた。 『トバモリーズ・ランチのトループ ホーム』  少し待つと、お馴染みの渦巻きが現れ、やがて液晶に白い部屋が表示される。ネストより広い室内に設置されたソファに、女性のアバターが二体座っていた。アバターの頭の上にはそれぞれのニックネームが表示されている。一瞬遅れて睦実のアバターが部屋の入り口に表示された。  ・ジェフィー『あ、むっちゃん!』  ・らいおん『むっちゃん、こんばんは〜』  部屋に居た二人が早速話しかけてきた。  ・むつ『こんばんは! 昨日あれから誰か来ました?』  ・らいおん『一瞬だけ中原さん来たよ』  ・ジェフィー『ほんの一瞬ね(笑)。挨拶だけだったよ』  ・むつ『そうだったんですね〜』  睦実は内心悔しがる。自分も一瞬で良いから中原と話したかった。だがそういった心情はおくびにも出さず、彼女達との会話を続けた。  色白で黒髪ロング、赤いワンピースを着たアバターがジェフィー、睦実がフロートを始めた頃から色々教えてくれる女性で、茶髪をポニーテールにしたTシャツ姿のアバターがらいおん、彼女もここの常連だった。  睦実はチャットを続けながら、彼(、)を待っていた。  ・むつ『ジェフィーさん今日来るの早いですね』  ・ジェフィー『今日休みなんだ。明日からまた激務だけど』  ・らいおん『私はいつもヒマ(笑)』  ・むつ『私もです』  ・ジェフィー『先週AXでやったイベントの写真見た?』  ・らいおん『見た見た! 北条さん髪切ってたね!』  ・むつ『え、私見てないです〜! どこで見られますか?』  ・ジェフィー『インタールードかサリアルのサイトにあるよ〜』  ・むつ『見てきます!』  今睦実が居るのは、トバモリーズ・ランチ、通称トバラというロックバンドのトループのホームだった。  全てのアバターの頭上にはニックネームが常に表示されているが、それにポインタを当てるとその人物のプロフィールが出る。そこでその人物がどのトループに所属しているかも見る事が出来る。故に、『私はこれが好きです』といったアピールの意味合いでトループに入り、実際にホームでやりとりをしない人種も多々存在した。睦実もトバラ以外のトループではあまり人とやりとりをしない。ここには四六時中誰かしら居るし、他の事を話したければ先ほどのように各ユーザーのネストを訪れて会話すればいいだけの話だ。しかし睦実がトバラトループに居座るのには理由がある。  トバラのメンバー、ベースの中原雅之がフローターで、たまにここを訪れるからだ。  睦実は一度だけ、深夜に中原とチャットをした事がある。茶髪で、トレードマークのラグランを着たアバターは、中原のイメージにぴったりだった。その時はホームに多くの人間が居た為、まともな会話は難しかったが、それでも、睦実はとてつもなく興奮した。  また話せたらな、と思いながら、インタールードという音楽雑誌のサイトで、話題に上がった画像を確認する。らいおんの言う通り、ヴォーカル&ギターの北条景(あきら)は長かった前髪を切っていた。青い照明の中でマイクに噛み付くように歌う北条の画像を見て、睦実は思わず溜息をつく。  なんてきれいな人なんだろう。  すぐさま画像を保存し、フロートのチャットに戻る。  ・むつ『今見ました! 北条さん前髪短い方が良いですね』  ・らいおん『同感同感。あの眼を隠すのはもったいないよ』  ・みーこ『こんばんはー!』  ・ジェフィー『あ、みーちゃんこんばんは〜』  ・むつ『今北条さんの髪型の話してましたよ』  ・みーこ『私は前髪長い方が好きですね〜』  ・らいおん『おおっと、反対意見が(笑)』  たわいもない会話をしながらも、睦実の神経は常にホームの入り口に集中している。アバターが現れる際の渦が出来る度に、中原ではないかと期待してしまう。  そういえば今日はまだサングレールをチェックしていない。それに気付いた睦実はフロートのウインドウを開いたままネットに接続し、ブックマークしてあるサングレールをクリックした。  数あるSNSの中で、睦実が唯一登録しているのがこのサングレールだった。ロック好きの人間の為の招待制ソーシャル・ネットワーキング・サービスで、ネット上の友人達の日記を読んだり、好きなバンドの情報を手に入れたり、或いはライブのチケットをやりとりが出来たりと、なかなか便利なものだった。フロートで知り合って、サングレールのIDを交換してやりとりするようになった友人も多い。  今日は特に面白い情報はなかった。睦実はフロートのチャットに戻り、そのまま数時間話して、カレーを食べるのも忘れて待ち続けた。 page: 6 第6話 6.  俺とアザミは井澄駅の改札前に立っていた。  木曜の午後一時半、背広姿の会社員や、たまに制服姿の学生が通る程度で、小さな改札はさほど稼働していなかった。古い駅舎の壁はくすんでいて、元はアイボリーだったんだろうが今は灰色に見えた。  アザミに電話して髪切り魔を捕まえようと言うと、アザミはすぐに井澄駅に来いと言った。素直に従った俺だったが、駅で何が起こるのか、誰かと会うのか、きちんと説明はされていなかった。 「なあアザミ、どういう事か教えてくれよ」 「今から俺のダチが来る」  アザミは昨日持ってたレザージャケットにアーミー柄のパンツ、エンジニアブーツを履いてサングラスをしていた。小学校時代からファッションのセンスは良かったが、今も変に流行に乗った格好ではなく、カジュアルなスタイルなのに洗練された印象を与える。 「ダチ?」 「そう。昨日ドタキャンした奴」 「この辺に住んでる人か」 「そう」 「それが髪切り魔とどう関係が……」  俺が言いかけると、電車が到着したらしく、わらわらと乗客が降りてきて改札を通過していった。 「お、来た来た」  アザミは軽く笑ってサングラスを取り、階段の方に向けて手を上げた。思わず視線をそちらにやったが、居るのはアキバ系の男に小柄な女子学生と中年のサラリーマンだった。  やがて三人が改札を抜ける。アキバ系男子とサラリーマンは俺らに目もくれず駅を出て、小柄で中学生らしい女の子が無表情に俺らの方へやってきた。 「よう、杏里(あんり)」  アザミはニカっと笑ってその子に声をかけた。  色白で黒髪のベリーショート、制服も着崩したりせず、スカートの丈も標準。切れ長の眼が印象的で、若さに似合わぬ怜悧さを感じさせた。 「昨日はごめんね、アザミちゃん」 「いいよいいよ、おかげでコイツに会えた。紹介するわ、俺の幼馴染みのミカ」 「あ、御神楽蛍、です」  反射的に答えると、杏里と呼ばれた少女は眼を細めた。 「ミカグラって、御に神様の神に楽しい、ですか?」  年頃の娘にしては低めの声で杏里が聞いてきたので、俺は頷いた。 「もしかして、サリアルの方ですか? サイトでたまに記事を書かれてますよね?」  俺は目を見開いて彼女を見た。 「あ、うん。昨日クビになったけど。しかしあれだけ記事あるのに、よく俺の名前なんか覚えてたね」 「珍しいお名前だったので覚えてたんですよ」  事も無げに杏里が言う。 「へえ、杏里はネットでミカの名前を一方的に知ってるのか。変な関係だな、おまえら」  アザミが苦笑しつつ頭を掻く。 「申し遅れましたが、東院学園中学三年の柿沼杏里です。お見知りおきを」  杏里は丁寧に言って深々と頭を下げた。思わず俺も礼を返す。 「とりあえずどっか話せる所入ろう。ミカ、昨日の店、今やってるだろ?」 「ああ。この時間なら客はほとんど居ないと思うよ」  俺が言うと、アザミは杏里を見遣ってから歩き出した。迷いのない歩みだった。  二分ほど歩いて、サイドニアを目指す。アザミと杏里は並んで歩き、俺は何故かその後ろについていく形になった。 「ホントだ、昼間は普通のカフェなんだな」  ランチメニューの書かれた店先の黒板を見て、アザミが言った。  三人揃って入店すると、案の定客は他におらず、オールディーズっぽいBGMが虚しく鳴っていた。カウンターには昨日のバーテンではない中年女性が居て、俺らを見るなり慌ててスポーツ新聞を脇に寄せた。 「良いお店ですね」  テーブル席に落ち着き、各々オーダーを済ませると、杏里が呟くように言った。壁のコンクリートを細い指でそっと撫でる。  しかし俺にはまだ状況が理解出来なかった。 「なあアザミ、杏里ちゃんと例の事件、なんか関係あんのか?」  タバコに火を付けたアザミは、俺の質問には答えず向かいに座る杏里の短い髪をさっと撫でた。 「やっぱりまだ違和感あるなぁ」 「私もだよ」 「おいアザミ、シカト禁止」 「杏里は最初の被害者だ」  俺の方には目もくれず、アザミがアイスティーをすすりながらあっさり言った。俺は一瞬理解出来なくて、杏里の細い目を見る。 「被害者って……、髪切り魔の?」  俺が聞くと、杏里は携帯を取り出してこっちに寄越してきた。  受け取って画面を見ると、腰の上くらいまである長髪の杏里が、友人と思われる女子と並んで映っていた。 「切られたんです」  携帯を受け取ると、杏里は少し俯いて言った。 「小学校の頃からずっと伸ばしてたのに」  一瞬、俺は杏里が泣き出すかと思った。悔しさと怒り、何よりやるせなさが多分に含まれた声だったからだ。  しかし杏里は次の瞬間顔を上げ、俺らを見た。 「アザミちゃんとミカさん、ホントに犯人捕まえてくれる?」 「そのつもりだよ、結構マジで」  タバコの煙が杏里の方へ行かないように気を遣いながら、アザミが言う。 「アザミちゃんの『マジ』は期待出来るね」  杏里が笑った。笑顔は普通の十四才だ。 「あれ、杏里ちゃん、学校は? 早退?」 「野暮な事聞くなよ、ミカ」  アザミが少し笑う。 「事件以来、親も教師も気を遣ってくれるんで、結構自由にサボれるんです。私は北井澄在住ですが、地元でアザミちゃんと会うと誰かに見られて余計な事言われそうだから、こちらに」  白い歯を見せて杏里が言った。 「杏里、警察はその後どうだ?」 「特に何も。今は昨日やられた人とか美和先輩の方にかかりっきりなんじゃないかな。少なくとも私のところには何の連絡もないよ」 「美和先輩?」  俺が尋ねると、 「第三の被害者、有泉(ありいずみ)美和。杏里が行ってる私立の高校生だ」  とアザミが答え、杏里が頷いた。 「ミカの為に情報を整理しようか」  アザミがタバコの火を消す。 「四月六日の夜、下校途中の杏里が後ろから殴られて髪を切られ、深夜に通行人がそれを発見、通報。四月十日の夕方、江戸川区の主婦・岡本陽子が同様に殴られて髪を切られ、未だ意識不明。それから十三日の夜、有泉美和がこれまた後頭部を殴られて髪を切られた。そして昨日の深夜に……」 「近藤がやられて、今朝発見されたって訳か」 「その通り」  俺は頭の中でカレンダーを作って犯行日時を確認する。 「杏里と有泉美和は同じ学校の中学と高校だけど、表面的な接点は全くない。ミカは私立だったから分かると思うけど、中学と高校だと特殊な部活か委員会でもしてないと滅多に知り合う事はないだろ?」 「そうだな。同じ敷地内に校舎があっても、ふれ合う機会はそんなにない」 「そうなんです」  杏里がブラックのアイスコーヒーを飲んでから言う。 「とにかく、先ずはこの四件の事件が同一犯によるものか、それを調べないといけない」  アザミが人差し指をピンと立てて言う。俺も杏里も自ずとその指先に視線を向けた。 「メディアは勝手に『髪切り魔』って呼んでるけど、同一犯だという確固たる証拠は、まだ、ない。警察がどう見てるかは分からないから、今そっちの情報も探ってる所だ。まあ俺も同一犯だとは思うけど、根拠は必要だ。じゃあ今俺らに何が出来るか? 有泉美和や他の二人に例の『虎』の事を確認しに行くのが無難だろ」 「虎?」  俺が聞くと、杏里がほんの少しだけ俯いた。 「杏里は殴られて髪を切られて、発見された時、顔に『虎』って印刷された紙を貼られてたんだ」  一瞬俺はぽかんとする。  髪を切って持ち去って、顔に張り紙?  訳が分からない。 「一体誰が何の為にそんな事を……」 「それは俺らが犯人をとっ捕まえてから聞けばいい」  アザミが不敵に笑った。俺は一瞬、昔を思い出す。アザミなら、何でもやってのける。そんな期待を煽る表情だった。 「杏里、美和はまだ病院か?」 「ううん、今朝退院して、今は田端の自宅に居ると思うけど」 「ソースは?」 「本人のブログに書いてある」 「へえ、ブログやってんだ。ちょっと見てみたいな」  俺とアザミが身を乗り出すと、杏里が携帯をちょこちょこ操作してから突き出してきた。 「適当に読んでて。お手洗い行ってくる」  そう言って立ち上がる杏里を尻目に、俺とアザミは携帯の液晶を覗き込んだ。  ピンクを基調にしたデザインで、プロフィール欄には有泉美和本人と思われる写メが貼られていた。自分で撮影したものらしく、可愛い表情を作ってはいるが、顔立ちは常人並みだ。 「顔を晒してるのか。物騒だな、この時代に」  俺が言うと、 「いつの時代もメディアリテラシーのない人間は居るさ。見ろよ、伏せ字で学校名まで書いてる。これじゃ特定されるよ」  とアザミが呟いた。  そこで俺は、井澄駅前からずっと抱いていた疑問をアザミにぶつける。 「おまえさ、杏里ちゃんの事ダチって言ってたけど、どこでどう知り合ったの」  アザミは軽く息を吐いて、少し笑いながら答えた。 「俺、年下のダチが多いんだ。中高生とか浪人生とか、大学生もちょっと」 「答えになってないな」 「杏里とは下北で知り合ったよ。ヒマそうにしてたから声かけて、メシおごったのが最初。あ、ナンパだとかセックスだとか下世話な事を考えるのはやめろよ? 俺はただ、イマドキの若者の生態を理解したいだけなんだ」 「何でまた。俺らもまだ若いだろ」 「違うよ、俺らはもうニューエイジじゃないし、年寄りだ。とにかく俺は、つるめそうな奴に声かけて、友情の輪を広げてるんだよ」  後半だけおちゃらけた口調でアザミが言った。俺は何となく理解出来たような出来ないような状態のまま、とりあえず頷いておいた。昨夜アザミが『悔しい』と言った時と同じような感覚を味わっていた。  アザミは何かに焦っていて、自分の加齢を否定するかのようにニューエイジと接している。らしい。具体的に何の為かは理解出来ないが。 「ああ、確かに書いてあるな」  アザミが杏里の携帯をこっちに寄越す。 『やっとおうちに帰れる〜♪  ママもパパもしばらく学校行かなくていいって言ってくれた★   気が済むまで家でのんびりしよう◎』 「投稿日時は今朝十一時過ぎか。これの前のエントリは?」  俺が聞くと、アザミが携帯のボタンをプッシュした。 「昨日の夜に投稿してる。呑気なもんだな」 『訳あって入院中……(泣)。  元気なんだけど、色々事情があるんだ。  早くおうちに帰りたーい! 帰ってアイス食べたーい!』  もう一つ前の記事は事件前のもので、学校の帰りに某芸能人に似た男を見かけただとかそんな事が書かれていた。 「あんまり賢い人じゃないみたいでね」  トイレから戻ってきた杏里が無機質な声で言った。 「プロフ欄にある写メ、上から撮ってあるでしょ? 正面からだと二重顎なんだよ、実際は」  それを聞いて俺はふと疑問を抱く。 「え、杏里ちゃん、この子とは接点ないんじゃないの? 顔知ってたんだ?」 「今その話をしようとしてたところだよ」  アザミが代わりに答えた。 「さっき言っただろ、『表面的な』接点はないって」  俺にはまだ理解出来ない。 「ミカはサングレールって知ってるか?」 「え、知ってるも何も」  サングレールはユーザー登録して利用してるし、リュウスケともそこで知り合ったし、他にも色々利用している。 「まあ、音楽好きなミカが知らない訳がねえよな。杏里と美和は、サングレールで知り合って何度か会ってるんだよ」  そこで俺は杏里がサリアルを知っていた事を思い出す。彼女も、そして有泉美和も、ロック好きって事か。 「何度かって言っても、実際会ったのは二回だけです。学校で、CD借りるのにちょろっと顔を合わせた程度で」 「成る程、接点が皆無って訳じゃないんだな」 「その通り。残りの二人、岡本陽子と近藤秀行にも、『虎』っていう張り紙があったか否かと、サングレールのユーザーかどうか、確認に行きたい」  アザミが力強く言うと、俺も杏里も無意識に深く頷いていた。  やっぱりアザミの根本は変わってないんじゃないか、と俺は思った。こうして俺や杏里、或いは他の『年下の友人』達の心を易々と掴む、という意味で。  俺は、それがどうしようもなく、嬉しかった。  有泉美和の家は田端駅から歩いて行ける距離だった。杏里が学校から住所録を拝借してきていたので、携帯で地図サイトを見るとすぐに分かったのだ。  井澄から電車で田端まで行く間、俺は杏里の話を聞いてジェネレーション・ギャップを痛感する事となる。 「ミカさんはサリアルに居たくらいだから、音楽詳しいんですよね?」  アザミの隣に座った杏里が身を乗り出して尋ねてきた。 「まあ、人よりちょっと詳しい程度だよ。俺の趣味は偏ってるしね」 「そうなんですか。私、洋楽はまだまだ分からなくて。ネットで試聴したり音源落としたりはするんですけど……」 「あ、そうか」  俺は納得する。 「今は動画サイトとか、音源をダウンロード出来る所が山ほどあるもんなぁ。俺の時代はラジオか、違法なファイル共有ソフトが主だったよ」  そう言って頭を掻くとアザミが薄く笑った。 「だから言っただろ、ミカ。俺達はもうニューエイジじゃないんだよ」  苦笑して頷いた。 「俺達の頃とは違う事ばっかだよ。活字離れってのはマジで起きてるしな」 「そうなの?」  俺が聞くと、杏里がどこか軽蔑を感じさせる声音で答えた。 「学校が『読書の時間』を設けないと、大抵の子は本なんか読みませんね」 「へえ、読書の時間ね。指定図書とかあるの?」  今度はアザミが苦笑した。杏里が続ける。 「朝のホームルームの後、たった十五分だけですよ。で、ほとんどの子はライトノベルか携帯小説読んでます」  これにはちょっと絶句した。 「携帯小説? 教師が許すの?」 「書籍化されてればそれでいいんです。ふざけてますよね」  今度こそ明らかな侮蔑を滲ませて杏里が言った。 「そういう杏里ちゃんは、何を読んでんの?」 「今は『善悪の彼岸』を」 「ニーチェかよ」  俺はまた苦笑した。イマドキの中学生も色々居るんだな。アザミの言う通り、『若者の生態』ってのは面白い分野かもしれない。  そうこうしている内に田端に着いたので、駅を出て携帯で地図を確認しながら有泉家を探した。住所からしてマンションだという事がうかがえたので、アザミの携帯のナビに従って十分ほど歩いた。  そして、有泉美和が住む古びたマンション前に到着する。 「杏里が美和の見舞いに来るのは不自然な事じゃない。でも俺達は怪しまれるだろうな」  アザミが片眉を上げると、杏里が言った。 「友達って言えば先輩も納得するよ」 「だがあんな目に遭った娘を親が放っておかないだろ。問題は親の方だよ。俺とミカは杏里の親戚で、護衛って事にでもしとこう。ミカは適当に俺に合わせといてくれ」 「了解」  マンションのエントランスに入ってエレベーターを待つ。  ちょっとした緊張感を覚える。それは赤の他人の家に殴り込みをかける所為でもあるし、髪切り魔の被害者二人が何を知っているかという期待の為でもあった。  五階の角部屋に到着する。表札には『有泉』としか書かれていない。  杏里がインターホンを鳴らすと、しばらくの沈黙の後ドアが開き、色黒の中年女性が顔を覗かせた。美和の母親だろう。 「突然失礼致します、私、東院学園の柿沼と申します。美和先輩のお見舞いに伺ったんですけど、今大丈夫でしょうか?」  杏里が丁重に言うと、色黒の女性は一瞬不思議そうな表情を浮かべ、俺とアザミを見遣った。俺はアザミに倣い軽く笑みを浮かべる。 「柿沼杏里ちゃん、よね? 美和から話は聞いてるわ。貴方も大変な目に遭ったって……」 「ええ、ですから従兄弟と一緒に来ました。ご迷惑でしょうが……」 「ママー、杏里ちゃん来たのー?」  部屋の奥から間延びした声がしたのはその時だ。 「美和!」 「杏里ちゃーん、入ってよー。私超ヒマだからさー」  色黒の女性は苦笑して、 「散らかってますが、あの子もああ言っているので……」  と言いつつ俺らを招き入れた。  中はごくごく普通のマンションで、確かに少々散らかってはいたが、最低限の生活臭という感じだった。キッチンとリヴィング、それから両親の寝室と思われるドアがあり、一番奥が美和の部屋らしい。  あらかじめ井澄駅前で買っておいた菓子折を美和の母親に渡し、一通りの見舞いの言葉やら謝辞やら何やらの応酬を済ませると、美和の部屋に案内された。  入室すると、六畳の部屋のベッドの上に、頭に白い包帯を巻いた少女が居た。確かにブログの写メより少々太っており、杏里の言った通り、正面から見ると丸い頬と顎の下の肉が目に付く。黒い髪はショートボブだったが、左側と前髪が不自然に短い。  彼女も切られたのだ。 「美和先輩、こんにちは。大丈夫ですか?」 「うん、杏里ちゃんももう平気?」  美和の母親が辞して二人が話し出す間、俺は狭い部屋の壁に目を奪われていた。様々なロックバンドのポスターや雑誌の切り抜きが所狭しと貼り付けられている。見た限り、全て邦楽のようだった。窓際のミニコンポの周辺にはCDが数枚散乱している。 「あ、紹介します。私の従兄弟です」  杏里がそう言って俺とアザミを指したので、俺は一歩前に出てまた営業スマイルを浮かべた。 「はじめまして、美和さん。アザミっていいます。こっちはミカ。杏里がお世話になってます。今回は大変でしたね」  アザミが爽やかに笑いかけると、美和は少し赤面して、 「いえ、そんな、とんでもないです……」  とか何とか呟きながら携帯をいじり始めた。俺が挨拶しても軽く一瞥をくれただけ。まったく、顔の良い奴はこれだから。  アザミが軽く杏里の肩を叩く。本題だ。 「先輩、ちょっと伺いたい事があるんですけど」 「え、何?」  美和は杏里越しにアザミの様子を伺いつつ言った。 「先輩は、殴られて髪を切られただけですか?」 「ん? どういう意味?」 「他に何かされたり、しなかったかな?」  あくまで笑みを浮かべたままアザミが問うと、美和は一瞬見とれたような顔をした後、 「あ」  と声を発した。 「私は殴られた後、気付いたら救急車に乗ってたんですけど、その後で警察の人が、頭に何か貼ってあったって……」  一瞬、俺とアザミは目を合わせる。こりゃビンゴかもしれない。 「何かって、何か分かります?」 「んー、ママに聞けば確実だけど、確か普通の紙切れで、漢字で『虎』とか書いてあった、みたいに言ってたような」  オーケー、ビンゴだ。 page: 7 第7話 7.  籠原睦実は今日もフロート世界に身投げする。  ・ライ『今日も学校行かなかったの?』  ・むつ『うん、起きたの午後五時だし』  ・ライ『睡眠周期ヤバくない? 夜中何してんの?』  ・むつ『フロってる。学校とかマジうざい』  ・ライ『気持ちは分かるけど、高校くらい出といた方が良いよ』  ・むつ『ライ君だって人の事言えないじゃん(笑)』  ・ライ『俺はちゃんと朝起きてるよ(笑)』  いつも通りライとしばし会話をし、親が部屋に来る時はベッドに身を潜め、その後またフロートに戻り、日付が変わる前にトバモリーズ・ランチのトループホームにワープする。  今夜はかなり混み合っていた。ジェフィーやらいおんといった常連の他にも、初めて来たという男女二人が居る。  例によってトバラ話に花を咲かせていると、ピコンという電子音がして、画面右上に小さなウインドウが現れた。  らいおん「新参の子達、ちょっとうざいね(苦笑)」  睦実は同意の言葉を返した。これは『ウィスパー』という機能であり、バディ登録をしているユーザー同士が他のユーザーに見られない形でチャット出来るシステムだ。  むつ「シングル出てから人増えましたよね」  らいおん「うんうん、ウィークリーチャート2位だもんね」  むつ「なんか、どんどん有名になっちゃいますね、トバラ」  らいおん「そうだねぇ。ちょっと寂しいよね」  むつ「それより今度のオフ会の計画どうなりました?」  らいおん「ジェフィーちゃんは仕事で来られないみたいだよ」  むつ「えー! 超残念!」  らいおん「だから私とむっちゃんとみーちゃんとその他かな」  むつ「らいおんさんに会うの、マジ楽しみです!」  らいおん「私もだよ。時間とか細かい事はまた決めようね」  トバラトループの常連集団でオフ会をするという計画は、先週から始まったものだ。睦実がフロートを始める前、今年の元旦にも、トバラのライブ前にここのメンツが数名、現実世界で顔を合わせたという。  らいおん「私アバターと大違いのルックスだけど笑わないでね」  むつ「私もです(笑)。元旦ってジェフィーさん来ました?」  らいおん「前日まで来る事になってたんだけど、ドタキャン」  むつ「あ、そうだったんですか」  らいおん「彼女も仕事とか家の都合とか大変みたい」  ジェフィー当人は今、フロート初心者の二人にシステムやルールの説明をしている。睦実なら面倒で教えたりしないが、ジェフィーは誰にでも優しく寛大に接する。是非ともリアルで会ってみたかった、と睦実は悔やんだ。  フロート内では現実世界で何をしているかを問われる事はあまりない。少なくとも、睦実が出入りする場では、職業や身分は問題ではない。トバラ好きならトバラ好き、読書好きなら読書好き、それだけで充分だった。時として会話の接続詞的にそういった話題になる事もあるが、睦実は堂々と女子高生と名乗る。  深夜二時を回り、初心者の二名がログアウトしていったので、ホームは睦実、らいおん、ジェフィー、みーこ、ミゲルの五人だけとなったが、ミゲルという男性はあまりチャットに参加しない。  ・ジェフィー『新参さん増えてるね〜』  ・みーこ『ですねー!』  ・らいおん『ジェフィーちゃんもよく相手するわ』  ・ジェフィー『最初は皆分からないからね』  ・むつ『ジェフィーさん、優しい!』  ・らいおん『同意!』  ・みーこ『同意!』  ・ジェフィー『はは、褒めても何も出ないよ(笑)』  ・らいおん『今日のライブどうだったんだろ』  ・むつ『あ、今日鹿児島でしたっけ』  ・みーこ『参加した人、来ませんね〜』  ・ジェフィー『サングレールにセットリストは上がってるね』  ・むつ『ホントですか? 今見ます!』  ・らいおん『見た見た。やっぱりあの曲はやらないんだねぇ』  ・みーこ『インタールードで今度密着取材するみたいですよー』  ・むつ『来月からのツアーですよね? 超楽しみ!』  ・ジェフィー『ZEPPかぁ。もっと小さい所で見たいよね』  ・らいおん『同意同意』  会話を楽しみながらも、やはり睦実の目はホームの入り口、ワープ地点に集中している。渦を巻かないか、中原がやってこないか、毎晩毎晩、飽きる事なく、まるでそれが自分の使命であるかのように、待ち続ける。  学校なんてどうでもよかった。リアルに友人が居なくてもここにくれば皆が迎えてくれる。二十四時間、誰かしら話す相手が居る。睦実はその事実だけで満足し、今日も朝日が昇るまで眠らなかった。 page: 8 第8話 8.  俺とアザミ、そして杏里は北井澄まで戻り、杏里とは駅で別れた。アザミは家まで送ると言ったが、杏里は拒否した。自宅は駅から近いらしいし、何よりうら若き女子中学生がアザミや俺と居るところを目撃されると色々不都合があるのだろう。  一駅先の井澄で下車し、俺とアザミはそのまま俺のアパートへ歩を進めた。 「まあ、99パーセント同一犯だろうな」  唐突に、アザミが呟く。  人の頭を殴り、髪を切り取り、張り紙をする奴。  いくら考えてもやっぱりそんな奴の心情や目的なんて分からなかったが、アザミの言ったように、捕まえてから聞けばいいのかもしれない。 「あとは警察がどう見てるかを調べるだけだ。遅くても明後日には分かる」  事も無げにアザミが言うので、俺は思わず立ち止まる。 「何それ、おまえ警視庁に知り合いでも居んの?」 「ちげーよ。でもコネみたいなものはある」 「どんなコネだよ」 「企業秘密だ。何事も分からない部分があった方がミステリアスで魅力的だろ?」  アザミが少し笑う。  アパートに着き、俺の部屋に落ち着いて二人してタバコに火を付けたところで、俺の携帯が鳴った。取り出してみると、液晶に茶髪で色白の男の画像が表示されている。俺は半ば呆れながら通話ボタンを押した。 「もしもし」 『なんでメールくれないのさ、ミカちゃん』  どこか緊張感に欠けた声を聞いて、俺は更にげんなりする。 「俺にも都合ってもんがあるんだよ」 『ははーん、バイトにも行かずイケメンを部屋に連れ込むような都合がね〜』  俺は愕然として立ち上がった。 「ちょ、ちょっと待て、おまえ今……」 『ドアの前。入れてよミカちゃん』  がっくりと肩を落とす。アザミが不思議そうな顔をしていた。 「何だ?」 「いや、ダチが……」 「ミカちゃーん、開けてよー」  ドアがドンドンと叩かれる。 「入れてやれよ、俺はいいから」  アザミがのんびりとタバコを吸いながら言うので、俺は玄関に向かい、鍵を開けた。 「ミカちゃん! 久しぶり! いつぶりだっけ?」  そうわめきながらずかずかと入り込んできたのは、アザミと同じくらい長身で、茶色い髪を耳の下まで伸ばした、ぱっと見チャラけた男だった。とはいえ顔にはまだあどけなさが残っている。 「あ、どうもどうも! 俺、ミカちゃんの生徒で逆井(さかい)文彦っていいます!」 「生徒?」  アザミは文彦のテンションに引く事もなく、自然に問い返した。 「親同士が昔馴染みでさ、俺が高校辞める前、ちょろっとコイツに勉強教えてたんだ」  俺が簡単に説明すると、アザミは勝手に飲み物を漁る文彦に興味を持ったようだった。 「年下……だよな?」 「そう、四つ下で、今月から大学生」 「フレッシュマンって言ってよ、ミカちゃん」  文彦は俺が自分用に買っていたジンジャエールを勝手に取り出して戻ってきた。 「で、ミカちゃん、こちらの方は?」  にこにこしたままアザミの正面に座った文彦が聞いてくる。 「あー、俺の幼馴染み」 「アザミって呼んで。文彦君、よろしく」 「ミカちゃんがお世話になってます! よろしく、アザミさん!」  二人は笑顔でがっちりと握手をした。なんだ、俺だけ取り残されてないか。 「文彦、おまえ大学は?」 「今日は早めに終わったんだ」 「良いなぁ、大学」  アザミが呟くと、文彦は飛び上がって叫んだ。 「そんな良いもんじゃないっすよ、アザミさん。つか、アザミさんは何してる人なんすか?」 「俺? 俺はヒマ人」  真顔でアザミが答えたので、流石の文彦もそれ以上は突っ込まなかった。そういえば俺もアザミが何をしてるのか、どういう生活をしているのかを聞いていない。でもさっきアザミが言った通り、分からない事がある方が魅力的なものかもしれない。問い詰める気はなかったし、時が来ればアザミも教えてくれるだろう。 「んでミカちゃん、バイトは?」 「昨日クビになったよ。つか文彦、俺ら忙しいから用がないなら……」 「いいんじゃね? 別に」  俺の言葉を遮って、アザミが言った。 「ここで俺らだけで考えてても仕方ねえだろ」 「そうだけど……」 「え、何? 何か企んでんの? お二人さん」  文彦が身を乗り出すので俺は顔を引いた。自分の身体のでかさを考慮してリアクションを取って欲しい。そもそも四つも年下のくせに俺より身長が二十センチも高いだなんてまったくもってふざけた奴だ。 「人を探してるんだ」  アザミがタバコの火を消しながら言った。 「人探しっすか?」 「そう。罪のない人様を殴って髪を切って持ち去る人を探してるんだ」  軽い口調で言うアザミはあくまでも笑顔だった。文彦は一瞬ぽかんとしたが、すぐに笑い出した。 「アザミさんって面白いっすね。アレでしょ? 髪切り魔? ウチの近所でも被害者出てて……」 「俺らはマジだよ」  俺が真顔で言うと、文彦はまた口を半開きにして俺とアザミを交互に見た。 「……理由、とか聞いたらまずいっすかね? なんで警察に任せないんです?」 「ヒマだからだよ」  アザミがばっさり言った。それ以上の追求を許さない声だった。文彦は少しビビったように肩を縮める。やはり、アザミは人の扱いが上手い。 「文彦君も音楽好きなの?」  表情と口調をがらりと変えてアザミが聞いた。文彦は安堵したようにわめいた。 「いやいや、ロックオタクのミカちゃんとは一緒にしないで下さいよね! 音楽なんてただの趣味っすよ。俺は聞かないし、ミカちゃんみたいに没頭するのってヤバいヤバい!」 「……一応、一時期俺が色々聞かせたんだけどな、コイツは高校入ってからバスケとか運動ばっかでさ」 「そうなんだ」 「運動は良いっすよ! アザミさんも背ぇ高いけど、スポーツとか好きっすか?」 「んー、格闘技は好きだな」 「格闘技! 好きな格闘家とか居ます? プロレスですか? それとも……」 「いや、自分でやる方」  俺は思わずアザミを見遣った。文彦は感心した様子で頷いていたが、俺はアザミが格闘技をやってるなんて知らなかったから、驚きを文彦に悟られないように飲み物を取りに行った。 「文彦君はこの辺に住んでんの?」 「そうっす、北井澄っす」 「一人暮らし?」 「はい! 一人暮らしって自由ですよね!」 「大学は楽しい?」 「んー、まだ慣れるのに時間かかりそうっす。サークルとか入ればまた忙しくなるだろうし」  俺がアイスコーヒー片手に部屋に戻ると、アザミと文彦はすっかり打ち解けたように談笑していた。 「でもアザミさんの存在ってちょっと意外でした。ミカちゃん、地元に友達居ないって言ってたから」 「そうなの?」  アザミに問われて、俺は頭を掻いた。 「実際居なかっただろ。おまえと再会するなんて夢にも思わなかったし」 「まあ、ケムシだしな」 「勘弁してくれ」 「え、ケムシって何すか?」  その後しばらく当たり障りのない会話を続けた後、文彦が帰ると言い出した。 「アザミさんに会えて良かったっす! ミカちゃんの事、よろしくです!」 「任せな。俺も楽しかったよ、また話そう」 「あ」  狭苦しい玄関でスニーカーの靴紐を結いながら、文彦が間抜けな声を出した。 「髪切り魔捕まえるの、俺に何か出来る事があったら言ってね」 「おまえごときに頼るかよ」  俺はふざけて吐き捨てたが、アザミは真剣に頷いた。 「情報が欲しいなら『沼地』に行けば良いですよ。何か分かるかも。じゃ、俺はこれで失礼!」  例のごとく緊張感に欠けた口調で言って、文彦は去って行った。  『沼地』の事は俺も知ってはいた。滅多に利用はしないが、理由は恐いからだ。 「なあミカ、文彦君が言ってた『沼地』って何だ? 何かの場所?」  アザミが首を傾げるので、俺は黙ってテーブルのPCを起動させ、ネットに繋いだ。  検索サイトに『沼地』と打ち込むと、泥のように汚らしい色の背景のページがヒットする。 「何だよ、これ……」  アザミが驚いた様子で呟く。  ページには細かい字で様々な『沼』の名前が表示されていた。その数は軽く千件を超えているだろう。 「掲示板の集まりだよ。匿名のね」  俺が言うと、アザミが身を乗り出して液晶を眺め始めた。 「匿名掲示板っていうとアレか、どこの誰が書いたか分からないやつだよな。一時期結構問題になってたけど」 「沼地は匿名掲示板の老舗だね。最近はもっと規模が大きい所も出来てるけど、沼地のタチの悪さはピカイチだよ」  アザミはふむふむと頷きながら、表示されている『沼』を見ていた。 「あ、トバラの沼ってのがあるぞ」 「沼地は普通の掲示板とは違う。バンドだったらファン同士が争ったり、ガセの情報が垂れ流されたりしてるらしい。英雄気取りで密録音源をアップする奴も居るみたいだしな」 「密録?」  再び首をひねるアザミに、俺は簡単に説明した。 「秘密で録音してネット上にアップするんだ」 「シークレット・トラック?」 「違う違う。一般人がライブに違法に録音機器を持ち込んで違法に録音して違法にばらまいてるんだよ」 「はー、そんな事する奴が居るんだな」  アザミは自分の知らなかった世界の発見にだいぶ興奮しているようだった。  俺が試しにトバラの沼を開くと、アザミは熱心に読み進めた。 『ちょっと売れたからって調子こいてるクソバンド』 『この北条とかいう奴、絶対精神病んでるだろ』 『先週のイベントのセトリ、誰か頼む』 『サングレールとか見てるとこのバンドのファンの痛さが分かる』 『次のリリースはアルバムかな? シングルはもういいよ』 『北条イケメンすぎ』 『じゃあ中原は俺の嫁』 『斉藤は俺が貰ってくわ』 『風呂場でも痛いファン多すぎ』 『なまじ北条の顔が良いからミーハーファンが出来る罠』 『クソバンドにはクソみたいなファンがつくという良い例』 『音楽性とか分からなくても北条がイケメンだからな』 『サングレールID・326600の女、キモすぎ』 『個人情報出すなよ』 『いいじゃん、もっと晒せ』 「なんか……酷いな、こりゃ」  アザミが呟いた。 「トバラは今一番売れてるからな、アンチも付くよ。特に『泥』はタチ悪いから、こんな風に個人情報を書き込んだりする」 「泥?」 「ああ、沼地の利用者の事を泥って呼ぶんだよ。因みに、泥でも特に酷い奴は『汚泥(おでい)』って呼ばれてる」 「はー、ネットって恐いな。この『風呂場』ってのは?」 「ああー、多分FSフロートの事じゃないかな? 泥は何でもすぐ隠語にするんだ」 「フロート? 俺たまにやるよ」  今度は俺が驚く番だった。俺自身は、フロートという仮想世界にはあまり興味がなく、サリアルで誘われてユーザー登録をした程度だ。システムを把握してサリアルのトループに入ったところで止まっている。 「さっき年下のダチが多いって言っただろ? そのほとんどの連中がフロートやってるんだ。だから俺も、たまにチャットしたりする」 「まあ、最近のフロートの勢いすげえもんな。登録者数も国内トップレベルだろ。でも俺は……」  そこまで言った所で、アザミがいきなり俺の腕をがっと掴んだ。俺はビクリとして硬直する。 「な、何だよ」 「おい、これ」  アザミがPCの画面を指さした。トバラ沼の一部だ。 『サングレールID・398930、風呂ID・008973。  ニックネーム・あんり。  北井澄在住、東院学園中学三年のクソガキ。  生意気なトバラファンの面汚し。誰か殺してやれ』 「こ、これって……」  俺は思わず手を口元にやって絶句した。アザミと顔を見合わせたが、二人ともしばらく口を利けなかった。投稿日時は杏里が被害に遭う前日だ。 「……ミカ、これ誰が書いたのか、分かるか?」 「分かんねえよ! ここ沼地だぞ!」 「これだけ書かれれば、やろうと思えば特定出来るな」 「だな……。一応このカキコには削除依頼が出てるみたいだけど、杏里ちゃんに知らせるか?」 「いや、今じゃなくていい。明日にでも俺が直接言うよ。でもこれで分からなくなったな」  アザミが俯いて顎先を撫でる。 「何がだ?」 「杏里を恨んでやったっていう可能性だよ。これを見た奴なら誰でも、理由なく杏里を襲える。容疑者もクソもねえ」 「そうか、そういう意味か。でも犯人が泥か否か、ここを見たかどうかはまだ分からないだろ?」 「まあな。しかしこの沼地ってのはホントにヤバいな」 「ああ。過去に何人も逮捕者が出てるよ。でも情報量はハンパない。勿論、虚偽の判断をするのはユーザー次第だけどな」  俺はトバラ沼を閉じて、沼の一覧を検索する。 「あったぞ」 『東京・髪切り魔に関する沼』  クリックすると、四月六日に杏里が被害に遭って、翌日事件が報道された次の瞬間にこの沼が出来たのだと分かった。 『女子中学生、殴られて髪を切られる。こえー事件だ』 『犯人マジキチだろ』 『被害者分かったよー。柿沼杏里っていう中三の子』 『顔写真欲しいな』 『だから個人情報は晒すなって』 『おまえ、ここがどこだか分かってるか?』 『汚泥うぜえんだよ』  こんな調子で話が進み、俺もアザミも少々閉口しつつ、そして剥き出しの悪意の垂れ流しに疲れつつ、それでも続きを読んだ。  四月十日、二人目の被害者が出て、沼は大騒ぎになった。 『おいおい、これって同一犯か?』 『連続傷害事件になったな。まだ続くんじゃない?』 『二人目! 二人目!』 『被害者は江戸川区の主婦・岡本陽子、四十三才だって』 『本当に髪切られてるだけか? 実はレイプもされてんじゃね?』 『十四才から四十三才までとは、犯人も趣味が広いな』 『犯人は汚泥だ!』 『案外ここ見て笑ってるかもな、犯人』 『見てたら一つだけ言わせてくれ! もっとやれ、と!』  不謹慎極まりないお祭り騒ぎの中で、俺とアザミはようやくまともな情報を見付ける。 『被害者の主婦、まだ意識不明。小岩の総合病院に居るってよ』 『小岩記念病院だよ。ソースはそこで働いてる看護師』 「小岩記念病院、か」  アザミが目を細めて呟いた。 「ちょっと待て、今調べる」  俺は沼を開いたまま別のウインドウで検索ページを出し、小岩周辺の病院情報を漁った。 「ああ、確かにその病院は存在するな。真っ赤な嘘ではない」 「この情報が正しいかは分からないけど、行ってみる価値はあるんじゃないか? 明日、杏里と一緒に行こう」  俺が無言で頷くと、アザミは沼を眺めたまま言った。 「ミカ、言いにくいけど近藤とかいう奴の事も調べたい。どこの病院か、もう退院してるかどうかとか、分かるか?」 「あー」  俺は唸って、無意識に眉を寄せていた。 「明日、サリアルの事務所に電話して聞いてみるわ。別に俺が見舞いに行っても不自然じゃないだろ」 「近藤はサングレールやってたのか?」 「ウチの会社のメンバーは全員登録してるよ。サリアルのコミュニティだってあるんだ」 「そうか」  そう言うとアザミは勝手にテーブルをベッド脇に寄せ、 「今日泊めてくれ。下北まで帰るのめんどい」  とか何とか言って、勝手に布団を敷いて横になった。 「別に良いけど、ちゃんと起きろよ?」 「ああ、そうだミカ」  アザミがこちらに背を向けたまま、思い出したように言う。 「昨日ちょろっと言ってた『天才』って人、連絡取れる?」 page: 9 第9話 9.  中原雅之のアバターがトバラトループに現れたのは午前二時半を回った頃だった。  睦実はどくんという心臓の音を聞き、耳の奥がキンキンとして、タイピングをしていた十本の指が停止した。  茶色い髪、ネイビーのラグラン、ジーンズにスニーカーという出で立ちは、前回睦実が話した時と変わらず、頭上には『中原雅之』と表示されている。  彼だ。  睦実の指はしばしキーボードの上をうろうろとさまよった。今度会えたらアレを話そうだとかアレを聞いてみようだとか、毎日毎日夢想していたのに、いざ本人が現れると、頭の中は真っ白になった。  ・ジェフィー『中原さん、こんばんはー』  ・みーこ『こんばんは★』        ・らいおん『この前はどうも〜』  ・中原雅之『こんばんは。皆さんお元気?』  ・らいおん『超元気です(笑)』  ・みーこ『中原さん来たから元気になりました(笑)』  ・あさこ『こんばんは! お久しぶりです! 元気ですよ!』  ・ミゲル『こんばんは』  ・中原雅之『結構結構。夜更かしさんが多いね』  ・むつ『こんばんは! 私夜型なんです』  ・らいおん『私も夜にならないと頭冴えない(笑)』  ・ジェフィー『ここの人は大抵そうだよね』  ・中原雅之『俺も景もかなりの夜型でさ、斉藤だけ違うんだ』  ・らいおん『そうなんですか!』  ・みーこ『斉藤さんは昼元気そう(笑)』  ・むつ『北条さんが夜型って分かる気がします』  動悸と耳鳴りで頭が熱を帯びたような状態のまま、睦実はチャットを続けた。中原は先日リリースされたシングルの感想を求め、ホームに居た総勢六名と、後から現れた男女二名は絶賛した。  中原にはベースの他に写真という趣味があった。今日はオフで、都内の人気のない場所に行って撮影してきたのだと言い、画像を三枚フロート上にアップロードした。  電信柱の真下から空を撮影したモノクロの写真、どこかの川の土手から夕日を撮った写真、それから何の変哲もない道路の水たまりをアップで撮影したものだった。写真のいろはも分からない睦実も他の人間も、それらに賞賛を送った。  ・中原雅之『なんか、写真集出さないかって話が来てるんだ』  ・ミゲル『すげえ』  ・らいおん『おおー!』  ・みーこ『凄いじゃないですか! 出たら絶対買います♪』  ・ジェフィー『ベーシスト兼写真家ですな』  ・あさこ『他の写真も見てみたーい』  ・むつ『実現しますように!』  ・中原雅之『いや、断るつもりだよ』  ・みーこ『ええー! 何でですか!』  ・らいおん『恥ずかしいんですか?(笑)』  ・ジェフィー『音楽一筋な感じですかね?』  ・中原雅之『俺、写真は素人だからね。おこがましいよ』  ・あさこ『謙虚!』  ・ミゲル『残念』  ・らいおん『謙遜しすぎですよ〜』  ・ジェフィー『そういう所がまたかっこいい』  ・むつ『でも写真集は見たかったですー』  ・中原雅之『ありがとう。俺そろそろ寝るね』  ・らいおん『了解です〜』  ・あさみ『良い夢を!』  中原がログアウトしたら自分も眠ろう、と思っていたところに、中原がこんな事を言った。  ・中原雅之『あ、景もフロートに誘ったから、今度来ると思うよ』  他の人間は狂喜乱舞して、チャットウインドウには次々と言葉が流れていった。  しかし睦実は呆然としていて、これが現実に起こっている事なのかすら分からなくなっていた。  北条さんと、話せる?  中原が辞した後、残りのメンバーで土曜のオフ会の話をしたが、睦実の頭にはほとんど入って来なかった。表面上は普通通り会話を続けていた。指が自動的に動いていた。待ち合わせは渋谷ハチ公前、時間は午後一時、らいおんが予約したイタリアンレストランに行った後カラオケへ。了解の旨を送る。ジェフィーが参加出来ない事を嘆く。そろそろ眠いからとログアウトする。  北条さんと、話せる?  結局その夜、睦実は一睡も出来なかった。 page: 10 第10話 10.  エイフェックス・ツインというテクノユニットが存在する。ユニットとはいえ実質はリチャード・D・ジェームズという男性が一人でやっているもので、彼は『テクノのモーツァルト』とまで称される天才だ。  俺は広義でのロックミュージックが好きでテクノは門外漢だが、最初にエイフェックスを聞いた時は、訳が分からなかった。訳が分からないけど何かとんでもない物を聞いてしまった、という強烈な確信があった。『ドリルン・ベース』と呼ばれる電子音の爆発は、ガレージロックやハードコアに慣れている俺ですら耳を塞ぎたくなるようなシロモノだったが、かと思えば次の曲ではピアノの美しくて優しいメロディが鳴らされていたりする。  天才と何やらは紙一重、というとどうしてもカズヤの事を連想してしまうが、とにかくリチャードもその例に漏れず奇人だった。虚言癖があり、戦車のような車を愛用し、おどろおどろしい表情を全面に押し出す。  そんなリチャードが、雑誌のインタビューで興味深い事を言っていた。彼が既存曲のリミックスを手がける際に言ったラインだ。 『曲がどんなにクソでも、サウンド自体に罪はない』  リチャードの本意は分からないが、当時高校生だった俺はこの言葉を聞いて色々考えたものだ。柚ヶ丘市がどんなにクソでも、住民自体には、俺やアザミには、罪はない。学校がどんなにクソでも、俺やカズヤや他の生徒自身に罪はない。  真理であると同時に戯言にも思える台詞だ。犯罪がどんなにクソでも犯人や被害者に罪はないか? 国がどんなにクソでも、政治家に罪はないか? 地球がどんなにクソでも、人類や動植物に罪はないか? その辺まで考えて、俺は思考を投げた。  何故こんな事を思い出したかというと、サリアルの社員である服部(はつとり)さんと話したからだ。二十代半ばの彼はエイフェックスが大好きで、PCのデスクトップにリチャード・D・ジェームズの不気味な顔をでかでかと載せていた。 「リチャードは俺の指針なんだよ」  服部さんは酔うとよくそう言っていた。 「ロックも勿論大好きだけどさ、ディストーション・ギターに疲れた時はリチャードの音世界に逃げ込むのが一番なんだ」  エイフェックスも充分耳に悪い、と俺が言うと、 「ミカちゃんはまだ若いからね」  と鼻で笑ったが、嫌味ではなかった。  俺が起床すると、アザミは既に起きていて、濡れた髪をタオルで拭いていた。 「シャワー借りるって言って、おまえ良いって言ったけど、覚えてるか?」  俺は目元をこすりながら首を横に振った。  それから洗顔や着替え等を済ませて、サリアルの事務所に電話して近藤の様子を聞こうと思ったのだが、井上社長が出たら警戒して教えてくれないかもしれない。そう思った俺は、以前から個人的に親交のあった服部さんの携帯にメールをした。するとすぐに電話がかかってきたのだ。 『俺達は止めたっていうか、否定したんだけどね』  警察が事務所に来て近藤の一件について話をした際、俺に動機があると言ったのは井上さんだけだったらしい。 『確かに退職は残念な事だったけどさ、ミカちゃんはそんな理由で人に危害を加えないと思うし、近藤君が髪切り魔の被害者なら、門違いもいいところだろ』  それを聞いて俺は心から安堵した。皆が皆敵という訳ではなかったのだ。 『で、近藤君の見舞いに行くって?』 「はい、なので病院を教えて頂きたくて」 『池袋の上坂病院って所らしい。西口から歩いて行けるって、さっき社長が言ってた。社長はこれから様子見に行くらしいから、ミカちゃんが行くなら午後の方が良いと思う。顔、合わせたくないだろ?』 「いや、そんな事はないっすけど、まあ、気にはなりますね。お気遣いありがとうございます」 『いやいや、また何かあったらいつでも連絡してこいよ』  俺は再度礼を言ってから電話を切った。 「池袋か」  アザミが少し苦い顔をした。都合が悪い、というよりは、面倒な事に関わりたくない、といった表情だった。 「なんか問題あるか?」 「ん、まあ多分大丈夫だ」 「じゃあこれから岡本陽子の居る小岩記念病院に行って、午後は池袋だな。杏里ちゃんとは連絡取れたのか?」 「ああ。今日は休校日らしい。いつでも出られるってよ」 「んじゃ、行きますか」  俺はタバコを灰皿に押しつけて立ち上がった。  井澄駅に現れた杏里は、当然制服ではなく私服姿だった。デニムのスカートにトバラのTシャツ、上に薄手のカーディガンを羽織っている。  かくいう俺もバンドTを着ていた。 「ミカさん、レアなの持ってますね」  開口一番杏里はそう言って、俺のTシャツを羨ましげに眺めた。 「シロップは私が知った時はもう解散してたんですよ」 「杏里ちゃんこそ、トバラT持ってるんだね。ライブで買ったの?」  バンドは、ライブで様々なグッズを販売する。Tシャツやパーカ、タオル、キーホルダー、缶バッジ、挙げればきりがない。トバラのグッズは著名なデザイナーがプロデュースしている事で有名だった。 「親がまだライブには行かせてくれないんです。これは通販で買いました」  グレーの生地に黒字で控えめにバンド名が書かれ、中央には円というか球体というか、とにかく丸っこい物体が浮かんでいて、その中で骸骨が藻掻いているという、ちょっと不穏なデザインだった。 「おいおいロックオタクども、俺にも分かるように話せ。杏里のTシャツがどうした」 「単なる世間話だよ」  サングラス越しに睨んでくるアザミを尻目に、俺は笑って電車の時間を確認した。 「もうすぐ来るな。小岩まで三十分ちょいか。駅から病院まではバスが出てる」 「面会開始時間までには着くだろ、充分だよ。あと、杏里に話す事がある」  アザミがさりげなく言う。 「え、何?」 「ネットにおまえのプロフィールが晒されてた。おまえが切られる前の日だ」  杏里は一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに口元を歪めて吐き捨てた。 「どうせ沼地でしょ? サングレールとかフロートで気にくわない事があるとすぐ沼地にカキコするバカが多いのは知ってる」 「書き込んだ奴の心当たりはないか?」 「分かんないよ。サングレールでは不特定多数が私の日記を読めるし、フロートのミニブログも一緒」 「杏里ちゃんもフロートやってるんだね」  俺が言うと、杏里は少し俯いた。 「一時期トバラ関連でやっただけですよ。今はチャットとかはしないで、ミニブログだけ使ってます」 「成る程ね」  フロートを運営している会社、フェローシップ・サービスは、ブログやミニブログも提供しているのだ。それらのブログの類は、俺はノータッチだけど、登録はしてるから使おうと思えばすぐにでも使える。そしてそれらは杏里の言う通り、不特定多数の目に映る事となる。どこでどんな恨みを買ったかなんて、分かりっこないのだ。  上り電車が来たので三人で乗り込んだ。上野で乗り換えて、小岩へ向かう。 「二人目の被害者、岡本陽子は四十三才の主婦で、未だ意識不明だ。家族にサングレールと虎の張り紙の件だけ確認すれば良い。杏里はまた、同じ被害に遭った可哀想な子って事で動いてくれ」 「分かった」  アザミと杏里が打ち合わせを済ませた頃には小岩駅に着いていた。小岩記念病院行きのバスはそこそこ混み合っていたので、杏里だけ座らせて、俺とアザミはその前に立った。  病院の巡回バスに乗るのは初めてのような気がする。時間帯の所為か老人が多く、他に停留所がないので運転手はずっと無言で黙々と運転している。後部座席でずっと咳き込んでいる老女が居て、バスの振動と音以外は、彼女の苦しそうな咳しか聞こえない。俺もアザミも杏里も無言だった。  十分ほどすると、大きい建物の上部が視界に入る。薄い灰色のその建物が小岩記念病院であろう事は予想出来た。  やがてバスは病院敷地内に侵入し、鮮やかなカーブを描いて正面玄関前のロータリーで停車した。 「さてさて、どうやって彼女の所まで忍び込みますかね」  アザミが口を開いた。バスから降りた人々は皆正面玄関から建物内に入り、そのほとんどが外来受付に向かっていた。  俺達もひとまず屋内に入る。吹き抜けのフロアには様々な病人達が診察やら会計やらを待つなりしていて、建物が古い事も相俟ってか、えらく陰気に感じられた。会計窓口とは反対側の壁にテレビがあり、NHKのニュースが垂れ流されていた。ほとんどの患者は興味なさげに、アメリカのハリケーンの被害状況を眺めている。  ここに居る人間が皆何かしらどこかしらを病んでいるのだと考えると、少しそら恐ろしくなった。勿論付き添いで来ている人間も居るだろう。だが大半は病人だ。風邪だったりガンだったりする連中が、一様に遠い国の悲劇を見ている。まったく、なんてシュールな図だ。  入って正面に総合受付があったので、俺らはそこへ向かった。  アザミが入院患者の面会に来たと言うと、受付の若い女性は少しどぎまぎした様子で患者名を問い返してきた。 「岡本陽子さんです」  にこやかにアザミが答えると、ぽーっとしていた女性の表情が急に硬くなる。 「ご家族や親族様でしょうか?」 「いえ、違いますが……」 「申し訳ありませんが、岡本さんの面会はご家族様以外お断りしております」  彼女は言いにくそうにもごもごと言った。 「警察の指示ですか?」 「それにはお答え出来ません。とにかく面会は無理です」  その後もアザミは食い下がったが、許可は下りなかった。仕方なく俺らは病棟を出る。すると、駐車場の手前に古くさい掘っ立て小屋のようなものが見えた。 「喫煙所かな。俺一服したいわ」  俺が言うとアザミも同意し、杏里も付いてきた。  小屋は風通しが良く、内部のベンチで中年男性が一人、俯いてタバコを吸っているだけだった。俺らは彼と向き合う形でベンチに座り、タバコを取り出す。 「居るのに会えないのは辛いね」  杏里が言った。 「警察には、逆らわない方が良い」  アザミが当たり前の事を、何故か得意げに言う。 「でも岡本女史について知る術が他にないか考えないとな。せめて張り紙だけでも確認出来れば良いんだけど」  俺がそう言った瞬間、前に座る男性が勢いよく頭を上げた。 「あ、あの」  気弱そうな男が気弱な声を発した。白髪交じりで、半袖の白いポロシャツは何日も洗っていないように見えた。顔はあたかも『疲労』の二文字で構築されているかのようなやつれっぷり。 「家内に……岡本陽子に、何か用事があるのかい?」  俺ら三人は喫驚して顔を見合わせる。 「旦那さん、でいらっしゃる?」  アザミが尋ねると、岡本氏は力なく頷いた。 「私、柿沼杏里と申します。私も先日、陽子さんと同じような被害に遭ったので、お見舞いに伺ったのですが……」  杏里の言葉に、岡本氏は目を見張った。 「君も、その、髪の毛を……」 「切られました。それから……」 「張り紙」  アザミが低い声で言った。岡本氏はビクリと身を縮ませる。いくらアザミの声に迫力があるとはいえ、親子ほど年の差のある若造にビビりすぎではないか、と俺は思った。 「陽子さんの事、お見舞い申し上げます。岡本さん、教えて下さい。報道はされていませんが、奥様は頭に紙を貼られたりしてませんでしたか?」  岡本氏の視線がうつろう。恐らく同じ被害者というポジションの人間にどこまで情報を開示していいのか考えているのだろう。しかしその時点で俺らは確信していた。彼女にも張り紙があったのだ、と。 「……発見当時、妻の頭部や顔面は血塗れだったらしい。その代わり、右手の甲に、君達が言うような張り紙があった、と警察から聞いたよ」  今度は俺の鼓動が早くなった。三人とも、やはり同一犯か。近藤はどうだろう? 今後も犯行が続くのか?  考え出すと、自分が如何に無謀でバカげた事をしているのか再認する羽目になった。都内広域の連続傷害事件。髪切り魔。それを、自分達の力で捕まえると? 「張り紙には何か書かれていましたか?」 「私は漢字で『虎』と印字されたものを貼られました」  アザミも杏里も冷静だった。岡本氏ははっとして言う。 「そう、そうなんだよ。妻の張り紙にも『虎』と書かれていて……」  そこからは、岡本氏の苦悩話だった。 「僕達には子供が居なくてね、僕も仕事が忙しくてなかなか陽子の相手をしてやる事が出来なかった。僕が悪いんだ。家には寝に帰るだけという生活が続いて、ろくに顔も合わせなくなった。それで、陽子はあんな風になってしまって……」  他にはけ口がないのか、それとも俺らを信頼してくれたのか、岡本氏は夫婦仲をそんな風に語り出した。 「あんな風?」  アザミが問い返すと、岡本氏はまたビクリとした。 「僕も詳しい事は分からないんだけど、インターネットで友達を作って、メールやチャットをしていたんだ。最近じゃ僕が深夜に帰宅しても、食事の準備も投げ出してそれに没頭してた。少額だけどお金もつぎ込んでたみたいでね。嗚呼、こんな話、申し訳ないな」 「いえ。その、陽子さんは具体的にインターネットの何を利用していたか、ご存知ですか?」  俺が聞くと、また氏の視線が揺れる。 「それが僕にはよく分からなくてね……。妻は音楽が好きだから、その関係だとは思うけど」 「音楽」  アザミが呟く。 「どんな音楽か、分かりますか? Jポップだとかクラシックだとか」 「いや」  岡本氏は即座に否定した。 「妻は昔からロックンロールが好きだった。僕と出会う前からね」  城のウエイターはいつも通りの笑顔で出迎えてくれた。俺らはシャンデリアの下の指定席に落ち着く。平日の昼、店内にはスーツ姿のサラリーマンが二人と、初老の女性が居るだけだった。 「いつものアイスティーでよろしいですか?」 「はい」 「俺はホットの紅茶を」  ウエイターは笑顔で厨房へ向かう。 「良い趣味してんな、ミカ」  壁のステンドグラスや古いゲーム機を見ながらアザミが言う。 「悪くないだろ?」 「気に入ったよ」  小岩記念病院で岡本氏と話した後、俺ら三人はひとまず上野まで戻った。俺とアザミはこの後池袋に向かうが、杏里とは駅で別れた。その際アザミにどこか良い店を知らないかと聞かれ、俺は迷わず城に案内したのだ。どうやらアザミは池袋で時間を潰すという選択肢を排除したらしい。  リュウスケと来たのがもうずいぶん昔の事のように思われる。色々起こりすぎたのだ、この短期間で。  しかし城の内装はもう何十年も不変で、タバコの味も不変で、俺が俺であるという事実も不変だ。俺はまた、リチャード・D・ジェームズの言葉を思い出す。  曲がどんなにクソでも、サウンドに罪はない。  現実がどんなにクソでも、それを構成する事実に罪はない。  内心、自分に言い聞かせているようだと思った。このふざけた事実、まったくいい加減な現実に。 「ビートルズの」  唐突に、アザミが言う。店内にはかすかな音量で「Hey Jude」が流れていた。お馴染みの、ラララの合唱部分だった。 「ホワイトアルバムの二枚目にさ、『Cry Baby Cry』って曲があるだろ。ミカ知ってる?」 「勿論。良い曲だ」 「俺、良いタイトルだなって思ってたんだけど、アレはジョン・レノンが考えたんじゃなくて、元ネタがあったんだよ」  それは俺も知らなかった。 「元ネタって、誰か別の人の曲か?」 「いや、新聞広告」 「は?」 「俺英語よく分かんねえけど、あの曲の出だしって、『Cry baby cry, make your mother sigh』、『赤ん坊よ泣け、泣いて母親に溜息をつかせろ』なんだよ」  俺は脳内で「Cry Baby Cry」を思い出して再生する。ジョンが優しく歌うのは、今アザミが言った通りのラインだった。 「確かにそうだな。で、元ネタは何なんだ?」 「『Cry baby cry, make your mother buy』、『赤ん坊よ泣け、泣いて母親に買わせろ』。乳児関連の商品のキャッチコピーだ。最後の『バイ』を『サイ』に変えただけ」 「そうだったんだ。でも、それがこの事件と何か関係あんの?」  俺が尋ねると、アザミは手にしたサングラスをいじりながら唸った。 「いや、あの岡本陽子の旦那さんを見てたら、何となくこの話を思い出したんだ。深い意味はない」 「まあ、分からなくもないな」  脳裏に、あの自信なさげな、今にも泣き出して、誰かに、例えば母親にでも飛び付きそうな姿が浮かぶ。 「とにかく、これで三人が同一犯って事は分かった。あとは近藤って奴だけだ」 「でも岡本陽子は面会が制限されてただろ? 近藤の方も警察が圧力をかけてるかもしれない」 「行かないよりマシだろ」  ウエイターが運んできた紅茶にミルクをたっぷり注いで、アザミは言った。 「どうせ俺らヒマ人なんだし」  それは、少しばかり、自嘲的に聞こえた。  既視感。デジャブ。  アザミがこんな顔をするのを、俺は見た事がある。あるはずだ。俺は慎重に記憶の糸を辿る。そして辿り着く。  そうだ、道徳の時間だ。  小学六年の、道徳の授業、確か最初の回だ。あれも四月だった。  教科書に書かれている寓話を、子供なりに解釈して子供なりに語り合う、是も非もない授業。  ある街に、仕事を失ったマジシャンが居た。彼は街で親の居ない少年と仲良くなり、その子の為にマジックを披露する事になる。少年が喜ぶ様子を見て、マジシャンの彼も喜んだ。  ある日彼は、マジックショーのオーディションが開催される事を知る。しかしその日時は、少年にマジックを見せると約束していたものと重なっていた。  自分がマジシャンの立場ならどうするか、考えなさい。  荒れていたとはいえ最初の授業だ、俺を含む児童達は子供なりに考えて、やがて大人の喜びそうな解答を、本能的に見つけ出す。 『仕事はまた探せるけど、少年との約束は一度きりだから、オーディションには行かず、少年にマジックを見せに行くべきだ』  クラスの大半が、そう答えたと記憶している。俺もその中の一人だった。  その結果を満足そうに聞いていた例の女教師が、 『莇君はどう思う?』  と聞いたので、クラスの視線は瞬時にアザミに向いた。  あのアザミは、何と答えるだろう?  クラス内は、俺も含めて、いつも通り期待した。アザミならきっと、面白い事を言ってくれる、と。  しかしアザミの答えは意外なものだった。 『どっちも行かねえよ』  半ば吐き捨てるように、アザミ少年は言った。女教師がたじろぎながらも理由を問うと、今のように自嘲的な顔をして、アザミは簡潔に答えたのだ。 『考えるの、めんどいから。職も約束も、俺はいらない』 「どうしたミカ」  目の前の莇良一にそう言われて、俺は我に返った。そして道徳の時間を覚えているかと聞いてみた。 「おまえの回答のおかげで、他の連中も皆『両方行かない』って言い出して、収集つかなくなったよな」 「あー、そんな事もあったような、なかったような」  少し照れるように笑うアザミに、俺は聞いてみる。 「今だったらなんて答える? オーディションか、少年か、おまえがマジシャンだったら、どうする?」 「両方行かねえ」  即答だった。 「金だとか友愛だとか、俺はそういうのはいらないんだよ」  だったら何を望んでいるのか。俺は問う事が出来なかった。 「そろそろ行くか」  アザミがサングラスをして席を立ったので俺も後を追う。ウエイターに、 「また来ます」  と言って店を出て、駅までの道すがら、今更な疑問をアザミにぶつける。 「おまえ、車とか持ってねえの?」 「んー」  アザミは無表情に唸った。少し、何かを考えているような横顔だった。 「免許は持ってる。車は持ってたり持ってなかったり」 「は?」 「今は持ってない。一時期バイクにハマって今でも一台持ってるけど、滅多に使わないな」 「そうなんだ」  長身のアザミならどんなバイクでも似合うだろうな、と俺は思った。 「でも俺はやっぱ徒歩とか電車が好きなんだよ。色んな奴らが居るだろ。そいつらを眺めるのが楽しいんだ」 「莇良一先生による人間観察講座ですか」  俺が茶化すと、アザミは軽く笑った。  上野駅から山手線で池袋に向かう。吊革に捕まってアザミと向き合うと、身長差がきわだって虚しくなった。どうせ俺はレディオヘッドのトム・ヨークより背が低いよ。  池袋で下車し、西口に出る。アザミが携帯で地図を表示し、俺らはそれに従って上坂病院へと向かった。  俺は渋谷は苦手だけど、池袋はそうでもない。渋谷ほど人種の幅が偏ってないというか、街全体が嘘くさくないというか。 「そんなに大きな病院じゃないみたいだな」  アザミが言った。確かに、繁華街から離れて歩くにつれ人通りも少なくなり、脇にコンビニがあるがその先は雑居ビルかマンション群のようだった。 「あ」  携帯を見ていたアザミが声を出して立ち止まる。真横に病院があった。さっき行った小岩記念病院よりも二回りほど小さく、駐車スペースもあまりない。入り口から建物まで少し距離があったので歩き始めると、見覚えのある男が正面玄関でタクシーを止めていた。 「近藤君!」  俺は無意識に呼びかけて駆けだしていた。 「御神楽さん……」  近藤はタクシーのトランクに荷物を詰め込んでいたが、その後ろからしゃがれた女性の声がした。 「ヒデ君、どうかしたの?」  現れたのは初老の女性だった。小さい目、ハの字の眉、分厚い唇、近藤にそっくりだった。母親だろう。  俺が深く一礼すると、アザミも追いついてきた。 「近藤君、もう退院するんだ?」 「はい、色々検査しましたけど特に異常はないそうで。あ、母さん、こちら御神楽さん。職場の元同僚の方だよ」 「まあまあ」  近藤のママンは非常に背が低く、アザミの半分くらいしかないように見えた。俺とアザミの登場におろおろとしている。 「ちょっと聞きたい事があるんだけど、今は無理かな?」  俺が満面の笑みと猫撫で声で言うと、近藤は何かを察したように母親をタクシーに乗せた。 「母さんは先に帰ってて。僕もすぐ戻るから」 「でもヒデ君、貴方体調が……」 「大丈夫、すぐだから」  黒いタクシーが発進し、病院の敷地を出て視界から消えた。 「お母さん、良かったの?」 「平気です。ちょっと過保護過ぎるんですよ」  近藤は苦笑して頭を掻いた。白い包帯と額のガーゼが痛々しい。近藤は元々黒髪の短髪だったし、包帯の効果も相俟って、どこを切られたのか分からなかった。 「ちょっと歩いた所に喫茶店があります。よければそこで、お話しを。で、御神楽さん、そちらの方は……?」 「俺の幼馴染みだよ」 「アザミです、よろしく」  サングラス越しにアザミが微笑んだが、近藤は少し身を縮めた。コイツは強者と弱者を本能的に見抜くという特殊能力がある。と、俺は勝手に思っている。サリアルでも、俺や服部さんではなく、井上社長や腹心の社員達にすり寄ってたもんだ。  三人で病院を後にし、近藤の案内で個人経営の小さな喫茶店に落ち着いた。城ほどではないがかなり年季の入ったカフェで、喫煙席はテラスだけだった。 「失礼します」  と断りを入れてから、近藤がタバコを取り出して火を付ける。 「で、聞きたい事っていうのは?」 「近藤君はどこの髪を切られたの?」  俺が尋ねると、近藤は頭のてっぺんをさすった。 「ここです。短く切られて頭皮が見えてて、カッパみたいになってるんですよ。みっともないので、生えてくるまで帽子でも被ろうかと」 「そっか……」 「あの、もしかして御神楽さんの所に、警察の人、行きました?」  近藤がいつものおずおず口調で言った。 「来たよ。アリバイを確認された」  近藤は口元を歪めて俯く。 「なんか……すみません。井上社長は何か勘違いされてるようで……」 「みたいだね」  沈黙が落ち、かしましい女子高生の集団がテラスの前を通過していった。 「僕、ちゃんと言ったんです、警察の人に」 「何を?」  アザミが初めて口を開く。近藤が身を乗り出す。 「犯人は多分、恐らくですけど、僕より背の高い奴です。僕は身長172センチですけど、ほとんど真上から殴られたように感じたんですよ」 「何か台に乗ってたとか、そういう可能性は?」  俺が聞くと、近藤は首を横に振った。 「僕は会社からの帰路、細い道を歩いてる所で被害に遭いました。台だとか人が乗れるようなものは何もない道です」 「だからチビのミカではない、と?」 「いや、チビ、というか、短身というか、ええ、まあ」 「気にしないで、どうせ俺チビだから」 「もう一つ聞きたい事があって」  アザミがアイスティーをすすりながら、人差し指を立てた。俺も近藤も、自然とその指先に視線を向ける。 「身体のどこかに張り紙をされてなかったかな?」  近藤は目を見開いた。 「どうしてそれを……」 「質問に答えて欲しいな」 「あ、はい……。ここに、鼻に、セロハンテープで白い紙を貼られてたらしいです。警察の人に聞いた話ですけど」 「何か書いてあったか、分かる?」  俺の問いに、近藤の視線が一瞬泳いだ。 「漢字で『虎』、と印刷されたものだと聞いています」  俺とアザミは目を合わせ、頷く。これで、四人全員だ。 「その張り紙の意味に、何か心当たりがあったりしない?」 「いえ、全く……」  力なく言って、近藤は俯いた。 「退院早々申し訳なかったね。早く帰ってお母さんを安心させてあげてくれ」  アザミが伝票片手に立ち上がる。四人全員に張り紙があった、それが確認出来ただけで充分だろう。 「近藤君、今日俺らと会った事は秘密にしてもらっていい? 井上さん辺りが聞いたらまた余計な誤解を招きそうだし」 「分かりました」  会計を済ませて店を出る。近藤はこのまま徒歩で自宅へ戻ると言ったが、アザミは既にタクシーを呼んでいた。それを待つ間、アザミがまた口を開く。 「近藤君は、ネット好き?」  世間話だと思ったのだろう、近藤は少し笑って答えた。 「好きですよ。サングレールもフロートも大好きでよくやってます。シューカツ中はストレス発散にもなりましたしね。ブログもやってて、ランキングではそれなりの所に入るんですよ」  自慢げに言う近藤を、アザミはあくまで微笑んで見ていた。 「まあ仕事始まってからフロートはそんなにやれてないですけど、ブログは毎日更新してます」 「この事件の事を書いたりは……」 「僕もそこまで非常識じゃないですよ」  近藤が苦笑していると、黒いタクシーがやって来た。念のため連絡先を交換し、そのまま近藤を見送った。 「何なんだろうな」  タクシーの後ろ姿を見詰めながら、アザミが呟いた。 「虎、トラ、とら。一体何の意味がある?」 「そういう事は犯人捕まえてから聞けばいいって、前におまえ言わなかったっけ?」  俺はそう言って駅方面に歩き始めた。 「言ったよ。でも四人全員に、しかも岡本陽子に至ってはわざわざ手の甲にまで張り紙があったんだ。犯人からのメッセージだとすれば、それは読み取らなきゃいけない」  いつになく真剣な面持ちで、アザミは言った。 「もう一つ。被害者の四人は全員ロックが好きでサングレールをやってるっていう共通点がある。まあ、岡本女史は推定だけどな」  そうこう言ってる内に駅に近付き、道の幅が広くなり、通行人も増える。 「ロックとネット、両方に詳しい奴とか居たら話聞きたいけどな」 「あ、居るわ」  俺は反射的に答えていた。 「俺がサングレールで知り合った奴で、音楽好きでネットもかなりやってる大学生が居る。つってもほとんど学校行ってないから呼べばすぐ来ると思うけど……」 「あ、やべ」  俺が言い終える前に、アザミはそう言って、ちょうど真横にあったゲーセンに飛び込んだ。  訳が分からずに立ち尽くしていると、正面からガラの悪い三人組が歩いてきた。一人は丸坊主、一人は金髪にピアス、もう一人はドレッドヘアで、服装や歩き方からして明らかにカタギではない。思わず一歩引く。  ゲーセンの入り口に立っていた俺にわざとらしくぶつかり、 「ぼけっと立ってんじゃねえよ」  と文句を付けたのはスキンヘッドでガタイの良い男だった。俺は少し震えつつ頭を下げる。金髪ピアスの男がゲーセンに一歩踏み込む。ドレッドヘアはその様子を後ろからうかがっていた。 「人の顔見るなり逃げるとは、つれねえな」  正面のUFOキャッチャーの横には、アザミがそしらぬ顔で立っていた。俺も思わずゲーセン内に入る。騒音、騒音、騒音。しかし入り口の三人に気付いた学生達はそそくさと奥に逃げていた。 「おめえ、いつから口利けなくなったんだ? あ?」  金髪ピアスの男はアザミほど上背はなかったが、威圧感という意味では他の二人とは一線を画していた。 「聞いてんのか、アザミよぉ」  俺は訳が分からないまま、ただ様子を見る事しか出来なかった。  アザミはこのヤクザっぽい、っていうかヤクザなんだろうが、この連中と知り合いなのか? 追われていたのか? アザミが何かしたんだろうか? 俺に何が出来る?  しかしアザミの次の台詞で、俺は喫驚する事となる。 「勘弁してよ、火野さん」  俺は愕然として金髪ピアスを見遣った。浅黒い肌、細い眉に切れ長の眼、言われてみれば、あの頃の面影がかすかにあった。  俺達の柚ヶ丘小学校で恐怖政治を行っていた、あの火野さんだ。 「てめえ、火野さんにタメ語使って許されっと思ってんのか?」  スキンヘッドがアザミににじり寄る。 「コイツは特別だ。おまえら、ちょっと消えろ」  火野さんがそう言って一瞥をくれただけで、坊主とドレッドの二人は素早くゲーセンから出て行った。 「アザミ、俺はおめえの為を思って毎回言ってんだぜ? 分かるだろ?」 「俺はもうアンタの手伝いだとか貸し借りだとか、そういうのとは関わらないって決めたんだよ」  アザミは降参したように両手をひらひらと上げた。 「おめえみたいな奴がまともな人生送れるとでも思ってやがんのか?」 「思ってるよ。だから邪魔すんなって言ってんの」  瞬間、火野さんがアザミに掴みかかった。野次馬のガキどもがわっと声を上げる。  しかしアザミの方が一枚上手だった。どこからか素早くナイフを抜いて、火野さんのうなじにあてがっていた。俺には何が起こったのか全く分からなかった。 「冗談だよ。おめえとまともにやりあったら無傷じゃ済まねえ。俺はおめえを気に入ってんだぜ?」  今度は火野さんが両手を上げた。二人は笑い合って拳を突き合わせる。 「気に入ってるからって、自宅にまで押しかけて勧誘に来る理由にはならないな」 「俺は諦めねえぞ」  火野さんは嫌な感じに笑いながら出口へ向かった。  すれ違いざま、俺は火野さんの右の小指がない事に気付いた。  やがて野次馬も散り、ゲーセンはまた騒音と歓声で埋まった。 「悪かったな、ミカ」  アザミが、入り口に突っ立ったままの俺に声をかけ、肩に手を置く。 「火野さんの事は覚えてるだろ?」 「勿論だよ。忘れられるかよ、あんなトラウマ製造器」  俺らはゲーセンを出て、再び駅に向かって歩き始めた。 「都内に出てから、一時期あの人とつるんでた事があったんだ。火野さんは前科持ちのガチのヤクザだけど、俺はそうなる気はなかった。でもあの人ってば俺の事相当気に入ってくれてるみたいで、今みたいな勧誘活動に励んでる訳」 「組に誘われてるのか?」 「ああ。池袋を根城に、渋谷・新宿にも手を広げてる所で、火野さんの親父さんが幹部、兄貴が若頭。火野さん自身にまだ肩書きはないけど、さっきの見てりゃ扱いは分かるだろ?」 「なんか、手伝い、とか、貸し借り、とか言ってたけど」  俺が思い切って、敢えて明るい口調で聞いてみると、アザミは肩をすくめた。 「昔の話だよ」  そこで俺は、サイドニアで再会した時アザミが『ヤバい事もやった』と言っていたのを思い出す。  アザミは火野さんの『手伝い』として、何か法に抵触するような事でもやっていたんだろうか。 「おーいミカ、さっき言ってたおまえのダチ、今から呼べるのか?」  俺ははっとして顔を上げる。 「あ、うん。ちょっと電話してみるわ」  携帯を取り出し、リュウスケの番号を呼び出す。通話ボタンを押すと、程なくしてリュウスケが出た。 『もしもし、蛍さん?』 「ようリュウスケ、メール返してなくて悪いな。急だけど今から会える?」 『あー、バイトあるんで小一時間になっちゃいますけど』 「良いよ。どこで会う?」 『蛍さんさえ良ければ上野でいいすかね?』 「了解。実は俺のダチも一緒なんだ」  ダチ、と言うのは少しばかり照れくさかったが、リュウスケは了解した。 「じゃあ城で待ち合わせるか」 『分かりました! すぐ出ます!』  電話を切る。 「またさっきの純喫茶って事にしちゃったけど問題あるか?」 「いや、良いよ」  それから俺らは再び上野に戻り、しのばず改札を抜けて城を目指した。  出迎えてくれたさっきのウエイターは少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔を浮かべた。  シャンデリアの下の指定席には若いカップルが居た。残念。角の四人席にリュウスケを発見、やっぱり髪にワックスを付け過ぎている。俺が声をかけると、ぱっと上を向いて手を振ってきた。 「急に悪かったな」 「いや、全然平気っすよ。ヒマだったし」 「これ、俺の幼馴染み」 「リュウスケ君、よろしく。アザミって呼んで」  アザミはまたにこやかに笑って手を差し出した。リュウスケは人の良い笑顔で手を握り返す。  オーダーを済ませると、俺より先にアザミが話を切り出した。 「リュウスケ君はミカとサングレールで知り合ったんだろ?」 「そうっす。蛍さんの文章好きで」 「ロックも好きなんだよね?」 「はい、大好きです。じゃなきゃサングレールやりませんって」 「どんなのが好きなの?」 「俺は蛍さんほど手広くは聞かないっすね〜。洋楽中心で、割とラウドなのが好きです。あの、それがどうかしたんすか?」 「おまえ、かなりネットやるじゃん。沼地もやるって言ってたし。ネットとロック、両方詳しい奴にちょっと話を聞きたくてさ」  俺が言うと、リュウスケは一瞬ぽかんとした。 「どんな話っすか? 俺で分かる事なら何でも答えますけど」  俺はアザミと一瞬視線を合わせる。 「サングレールって、ユーザーの個人情報とか簡単に分かるもんなの?」  アザミが聞くと、リュウスケはいつも通り髪をいじりながら答えた。 「蛍さんはやってるから分かると思いますけど、人それぞれっすね。自分で詳しいプロフィールを書いちゃう奴も居るし、顔写真晒す人も居ます。サングレールは基本的に本名登録だから、それに馬鹿正直に従う連中も居ますけど、俺から言わせりゃ危険行為ですよ」 「まあ、俺は会社の命令で始めたから本名登録だけどな」  アザミは黙って頷きながら、人差し指で古いテーブルをとんとんと叩いている。 「でも最近はセキュリティも強化されてるみたいっすけどね。他のSNSで個人情報が漏れちゃった事があって、それを受けて色々厳しくなってます」 「成る程ね。リュウスケ君は沼地もやるんでしょ?」  リュウスケが笑う。 「そうっすね、完全に泥ですよ、俺。つかぶっちゃけ汚泥っす」 「そうなの? リュウスケ君はあんなタチの悪い事しそうにないけどな」  アザミが言うと、リュウスケはまた髪をいじった。 「汚泥って言っても、実際危険なカキコをしたり沼を作ったりする奴と、それを傍観して笑い飛ばすタイプが居るんですよ。俺は後者ですね」 「おまえ、普段はどんな沼見んの?」 「あー、大体好きなバンドの沼っすね。なんだかんだで沼地は情報早いから」  そこでアザミの携帯が鳴り、アザミは断りを入れてから立ち上がった。 「よう、瑠璃子(るりこ)、元気か?」  アザミは応対しながら店を出た。 「アザミさんって」  リュウスケがぼんやりとした口調で言う。 「ん?」 「アザミさんの髪、良いっすね。すっげえ良い」 「そうか?」  この髪フェチ男は、同性まで髪質で判断するのか。俺はどうなんだ、と聞こうとした所でアザミが戻ってきた。 「悪い悪い、何の話だっけ?」 「沼地っすね。それとロック好きって、どう関係あるんですか?」 「それは詳しくは言えないんだけど」  アザミが目を伏せながら言う。 「サングレール以外でロック好きが集まるような所ってあるかな?」 「ん〜、今はもうファンサイトとかないっすからね〜。やっぱフロートが主流なんじゃないですか?」 「フロートか」  そういえば杏里も一時期やってたと言ってたな。  俺とアザミの真剣さに気圧されたのか、リュウスケが少し身を引きながら言う。 「奥の奥の奥の手、なら、ちょっと前まであったんですけど」 「奥の手?」  俺とアザミが同時に問い返す。 「沼地の汚泥達が始めたアングラサイトですよ。通称『浦地(うらち)』。サングレールをはじめとする各種SNS、沼地、その他サイトのログを全て保管していたサイトです。例えば沼地に危険な書き込みがされたとしますよね? で、誰かが運営に通報して、そのカキコはデリートされる。でも浦地では、消されたカキコも見られるんです」 「聞く限り、物凄い情報量だな」  俺が言うと、リュウスケはぶんぶんと頭を振って頷いた。 「汚泥が何十人何百人と集まって作り上げた究極のデータベースですけどね、これも結局通報されて、多分もう消えちゃってます」  「はぁー、ネットって恐いな」  アザミが感心して言う。 「あ、でも関係ないですけど、サングレールとかなら」  リュウスケが独り言のように呟いた。 「サブアカ持ってる奴も結構多いっすよ。俺もですけど」 「サブアカ?」  再び、俺とアザミが同時に聞き返す。 「サブのアカウントです。ほら、サングレールってメアド一つでアカウント作れるじゃないですか。だからメアドを幾つか使って、別のユーザー名にして、別人として振る舞うんです」 「一体何の為に?」  アザミが問うと、リュウスケは淡々と答えた。 「俺の場合、大学とかバイト先とか、現実世界での友人と付き合うアカウントと、もう一つ、蛍さんとか他のネット仲間と付き合うアカウントを使い分けてます。そういう人かなり多いっすよ」 「成る程ねぇ」  またもアザミが感嘆の声を上げる。 「あ、すんません、俺そろそろバイト行かなきゃ」  リュウスケがバッグをごそごそと取り出しながら立ち上がった。 「忙しいとこ悪かったな」 「問題ないっすよ。またなんかあったらいつでも言って下さい」 「あ、リュウスケ君」  アザミが軽い口調で声をかける。 「なんすか?」 「髪切り魔って知ってる?」  その瞬間、リュウスケが口元を歪めて苦々しい顔をした。あの、人が良くて誰にでも優しいリュウスケが、だ。 「知ってますけど」 「どう思う?」 「死ねば良いんですよ」  その迫力に、俺は少したじろぐ。 「人の大事な髪の毛を切るなんて、最悪っすよ。俺だったら殺してますね」  リュウスケはそのまま振り向かずに城を出て行った。 page: 11 第11話 11.  その日籠原睦実はフロート世界に行けなくなった。  古いルーターの調子が悪いようで、家中のPCがネットに繋がらなくなってしまったのだ。勿論睦実もルーターの電源を入れ直したり、様々なスイッチを入れたり切ったり、自分に出来そうな事は全てやった。しかしそれでもPCの画面には、 『インターネットに接続できません』  という事務的かつ無慈悲なメッセージが表示されるだけだった。  こうなると睦実は何も出来なくなってしまう。父親が帰れば簡単に直してくれるだろうだが、帰宅は大抵深夜だ。  起床したのが午後二時、父親が帰るまでライや他のバディやトバラトループの面々と話す事が出来ない。  何より明日はトバラトループのオフ会で、今日携帯のメールアドレスや番号を交換する予定だった。フロートが出来なければそれすら行けなくなってしまう。  睦実は一時間ほどルーターと格闘した末、苛立ちのあまり物に当たりたくなったが、それは少々生産性に欠ける行為だ。久々に読書でもしようと思い、狭い部屋の本棚を眺める。読みかけたが難解さ故に放置していた、ル・クレジオの『大洪水』を手に取る。しおりを挟んである箇所からちびちびと読み進めてみたが、やはり頭に入りにくいし、目下睦実の最大の懸念はネット接続の回復とトバラオフ会にある訳だからして、「大洪水」の中でフランソワ・ベッソンが聞いているカセットテープの内容にはさほど惹かれなくなってしまった。  だったら、と思い睦実が学習机の引き出しから取り出したのは、四冊のクリアファイルだった。A4判のものが三つ、B5サイズが一つ。睦実は自分が持ちうる限りのトバモリーズ・ランチの雑誌露出を全てこれらにファイリングしていた。  一冊目を開く。トバラがメジャーデビューする直前に、インタールードという雑誌に取り上げられた時の記事だ。 『トバモリーズ・ランチ、この名前を覚えておいて欲しい。  インディーズ時代からその独自の音楽性と圧倒的なライブパフォーマンスで耳の早いリスナーや業界人の中では知られた存在で、昨年リリースされたセカンドミニアルバムがインディーズにも関わらずロングセラーとなった事は知っている読者も多いだろう。  トバモリーズ・ランチは、ヴォーカル&ギター、そして全作詞作曲を手掛ける北条景と、北条の中学時代からの友人でベーシストの中原雅之、それからこの世代では類を見ないバカテクドラマー・斉藤豪(ごう)の三名で構成されている。  平均年齢二十二才という若さだが、そのライブパフォーマンスはその辺のベテランバンドにも引けを取らない貫禄と、同時に、若手ならではの危うさで以て反響を呼び、ライブの度にチケットの入手が困難になってきている。  そんな彼らが、今回シングル「Loner(ローナー)」でMJBレコードから満を持してメジャーデビューする事となった。この曲がまた素晴らしいのだ。「俺の感情を返せ」という北条の悲痛な絶叫と、それを支えるがっちりとしたリズム隊。一部で「北条節」とも言われている独特で難解な音を、この三人はテクニックの面でもメンタリティの面でも、完璧に表現している。これほどオリジナリティ溢れる新人に、筆者は近年お目にかかっていない。  シーンに地盤沈下を起こす可能性大の、アンセムとなり得るこの曲に、「一匹狼」を意味するタイトルを冠する北条のセンスには脱帽する。これが日本のニューエイジであり、ようやくそれを表現出来るバンドが現れたのだ。  残念な事に、今回インタビューに答えてくれたのは中原と斉藤のみだ。ご存知の方も居るだろうが、フロントマンの北条は非常に気難しい。ライブ中もバンド名を名乗る時以外は一切口を開かず、中原のようにフレンドリーにMCをする事もなければ、斉藤のように客を煽る事もしない。だがそのミステリアスなイメージが、トバラの人気の一要因である事は認めざるを得ないだろう。  以下のインタビューでは、中原・斉藤にメジャーデビューの抱負を語ってもらうと同時に、北条景という奇人にして鬼才の人物像についても話して貰った。  もう一度書く。トバモリーズ・ランチ、この名前を覚えておいて欲しい。この国のロックシーンをひっくり返す存在となるだろう』  インタビューを読みながら、睦実はトバラの経歴を確認する。  中学時代からギターで作曲をしていた北条と、北条に誘われベースを始めた中原は、二人で多くのドラマーとバンド活動を行ってきたがどれも上手くいかず、同じ音楽系の専門学校で斉藤と出会う事でようやくトバラは現体制となった。ドラマーがころころ変わっていたのは、北条の書く曲が難解すぎるという理由と、その人格に付き合えるだけの寛大な精神の持ち主が居なかったから、という二つの理由があった。  専門学校卒業後、トバラは都内のライブハウスを中心に活動し、すぐにインディーズデビューが決まって、ミニアルバムを二枚リリースした。この記事にあるように、その二枚目はインディーズとしては異例の売り上げを叩き出した。  レコード会社の争奪戦の末、MJBレコードからメジャーデビューが決まり、シングル「Loner」はタイアップなしでウィークリーチャート七位まで登りつめた。若手ロックバンドのデビューとしては破格の売り上げである。  睦実はどんどんインタビューを読み進める。  ファーストフルアルバム「Lunch Time」のリリースの際、初めて北条がインタビューに応じた様子、そのアルバムをひっさげての全国ツアーの密着取材、セカンドアルバム「Sarah」では遂に各種音楽雑誌の表紙を飾り、全曲解説インタビューや三人の個別インタビューも行われた。「Sarah」がまたもヒットチャートを賑わせ、トバラが名実共に若手トップバンドになっていく軌跡が、四冊のクリアファイルに刻まれていた。三枚目のアルバム「HARSH」発売前夜に行われた、日比谷野外大音楽堂でのライブはもはや伝説となっており、大半の予想通り「HARSH」もチャートで初登場二位と大健闘した。  では、巷でトバラの曲が鳴りまくり、学校のクラス全員がトバラの大ファンか、というと、そうではない。  幸か不幸か、この国ではロックミュージックは良い意味でも悪い意味でもオルタナティブな文化であり、いくらトバラがアルバムを三十万枚売ろうと、地上波の露出でもない限り、マジョリティはその存在を知らない。  それで良いと、睦実は思う。高校の頭の悪いクラスメイト達には、トバラを聞く資格すらないと、彼女は考えていた。  四冊目のファイルを読んでいると、父親が帰宅した。  睦実はすぐに部屋を出て、ネットに繋がらないから何とかしてくれと懇願した。 「こんな遅くに、インターネットをやるのか?」  時計は午後十一時半を指していた。睦実からすれば、やっと頭が働き始める時間なのだが。父親はほんの少し眉を寄せたが、久しぶりに娘の方から会話を持ちかけられた嬉しさが勝ったようだった。 「まあ、父さんもこれから仕事でネットを使うからな、晩ご飯を食べたら見てみるよ。おまえは何か調べ物でもするのか?」  睦実は曖昧に返事をし、とにかく急ぎなのだと繰り返した。  父親が遅い夕飯を終え、日付が変わる直前に、ネットは復活した。睦実はすぐさまフロートを起動し、トバラトループに飛ぶ。父親がやってきて無事に接続出来たか確認に来たが、睦実は礼も言わず無言で頷いただけだった。  トバラトループには、らいおんとみーこの二人しか居なかった。  ・むつ『こんばんはー! 今日人少ないですね』  ・らいおん『あ、むっちゃんこんばんは』  ・みーこ『今ちょうどその話してたんですよー』  ・らいおん『最近あんりちゃんとかおかよさん達来ないでしょ?』  ・むつ『そうですね、おかよさんは毎晩来てたのに』  ・らいおん『コンドルさんは新社会人だから忙しいのかも』  ・みーこ『トバラ、嫌いになっちゃったのかなぁ(泣)』  ・むつ『そんな! きっと皆学校とか仕事が忙しいだけですよ!』  ・らいおん『あ、昨日広島のライブで「Loner」やったらしいよ!』  ・みーこ『ええええ! マジですかぁ?』  ・むつ『凄い! いつぶりですか? 一年ぶりくらい?』  ・らいおん『だね。広島の人羨ましい』  ・みーこ『羨ましい!』  ・らいおん『でもやっぱり、あの曲はやらないみたいだね』  ・むつ『ですね〜、聞いてみたい』  ・みーこ『いつかリリースされると良いですね!』  その調子で二時間ほど話していると、ジェフィーがやってきた。  ・らいおん『ジェフィーちゃん遅いよ〜』  ・むつ『ジェフィーさん、こんばんは!』  ・ジェフィー『こんばんはー、今日ちょっと忙しくてさ』  ・みーこ『お疲れ様です!』  ・むつ『やっぱり明日のオフ会は無理そうですか?』 ・ジェフィー『うーん、行きたいのは山々だけど、仕事が……』  ・らいおん『あさちゃんとミゲルさんともまだ連絡が取れないの』  ・むつ『え、そうなんですか?』  ・みーこ『二人とも明日来る予定でしたよね?』  その時、ウィスパーを告げる電子音がして、らいおんからメッセージが届いた。  らいおん「むっちゃん、ここだけの話だけど」  むつ「え? 何ですか?」  らいおん「あさこちゃんとミゲルさん、カップル認定したの」  むつ「ええー! ホントですか?」  『カップル認定』とは、フロート上での恋愛、付き合いを公認のものにするもので、利用には課金が必要だ。フロート内での事なので、言うまでもなく現実世界で別に恋人や伴侶が居ようと関係なく誰でも認定出来る。  らいおん「ジェフィーちゃんが色々相談に乗ってたみたい」  むつ「そうなんですか。やっぱジェフィーさん優しい」  らいおん「でね、カプ認定は先週だったけど、今日初デートで」  むつ「あ、リアルでも会ってるんですね」  らいおん「そうそう」  むつ「あさちゃんもミゲルさんも都内の人でしたっけ?」  らいおん「うん。デート場所もジェフィーちゃんと相談したって」  むつ「そうなんですね」  らいおん「私にももっと頼って欲しいなって思うけど(笑)」  むつ「私は頼りにしてますよ!」  らいおん「ありがと。そろそろ明日の為にメモで連絡先送るね」  『メモ』はユーザーのオンライン・オフラインを問わず、相手にメッセージを送れる機能だ。流石に衆人環視のチャットで個人情報を書いたりはしない。  らいおんとみーことメモで互いの情報を交換したところで、睦実はログアウトする事にした。  ・らいおん『明日は私とむっちゃんとみーちゃんだけかもねぇ』  ・みーこ『私は別に良いですよ! 楽しみです!』  ・ジェフィー『皆でカラオケでトバラ熱唱してきて(笑)』  ・むつ『じゃあ私寝ます! また明日!』  ・らいおん『おやすみ〜』  ・みーこ『おやすみなさい!』  ・ジェフィー『おやすみ』  睦実はPCの電源を落とし、明日目印として着ていくトバラTシャツと、緩めの上着、スカートを確認してからベッドに入った。 page: 12 第12話 12.  柊(ひいらぎ)病院の総合受付で第六病棟への入棟許可証を貰った俺は、一度外へ出て敷地内の一番奥の建物へと足を進める。  柊病院は東京都とは思えないほど緑に囲まれていて、病棟も小高い丘の上にあり、その周囲は森林だ。今日も今日とて曇りで冷える。第六病棟へ向かう道すがら、俺は深緑の木々の葉に監視されているように感じた。  古びた建物に入り、入り口で入棟許可証を見せる。小岩記念病院が陰気なら、柊病院は陰気でも陽気でもなく、表面下で何かが蠢いているのに気付かないふりをしているようなイメージだ。  エレベーターで六階まで上がり、狭いエレベーターホールにあるインターホンを押す。  氏名を名乗るとガチャリという金属音がして、鉄の扉がゆっくりと開いた。ナースステーションの脇で男性看護師にボディチェックをされ、その横では別の看護師が俺のバックの中身をチェックしている。  時折入院患者が廊下を歩く姿が見えた。それは抗精神病薬と抗鬱剤と抗不安薬で構成された風景で、パジャマ姿の患者達は、皆上から糸で吊られているように歩いていた。 「ではこちらでお待ち下さい」  無愛想な看護師に言われ、俺は半年前と同じ面会室に入る。  かなり狭く、テーブルと椅子が四脚、荷物を置く棚、緊急時の為のインターホン、そして手の届かない位置にある窓。半年前と、なんら変わっちゃいない。 奴の病状がどうなっているか、今の俺には分からない。昨日の夜の時点ではそこそこ安定していたようだが、今この瞬間がどうかは神のみぞ知る、だ。もしかすると前のように会話もままならない状態かもしれない。それでも俺は、話したかった。  しばし待つと、女性看護師に連れられて、黒いパジャマを着た男が俯き加減で待合室に入ってきた。 「ほら、こっちですよ」 「……分かってるよ、うるせぇな」  その声に、俺はドキリとする。半年ぶりに聞く、錆の利いた美声。  痩せこけた男は頭をゆっくりと左右に振り、髪の毛のフケを撒き散らしながらこちらへやって来た。上下共に無地の黒いパジャマで、袖から伸びる腕には無数の切り傷が残っており、足は針金のように細い。コイツは昔から黒い服しか着なかった。制服のシャツも靴下も、下着まで全て黒だった。  やがて男が俺の前で停止し、ぎょろぎょろとした濁った眼でこちらを見る。視線がかち合い、俺は思わず顎を引く。男は椅子に座り、薬の所為で真っ赤になった唇から、ゆるゆると垂れる唾液をぬぐった。 「……よう、蛍」  村雨カズヤだ。 「よう、元気か?」  俺が尋ねるとカズヤは視線を明後日の方に投げて口を半開きにした。唇の端によだれが溜まる。 「カズヤ、元気か?」 「元気だよ」  俺を見もせずに、カズヤは答えた。 「実は今日は話したい事があって来たんだ。話して良いか?」 「き、聞くだけなら、俺にも、出来る」  薬の影響か、カズヤはこの病院に入ってからろれつがうまく回らなくなった。  高校で一時期つるんでいたカズヤは、掛け値なしの天才だった。  IQは200近いと言われ、由緒正しき村雨家の長男として、その未来を期待されていた。小学五年で一般教養に飽きたカズヤはその後哲学や芸術方面に興味を示すようになる。親族からの期待は絶大だった。村雨家は古くから代議士や弁護士、詩人や画家を輩出してきたいわゆる名家だったが、その一族全員が、カズヤの将来に期待していた。  カズヤが統合失調症と摂食障害、解離性障害を発病するまでは。  最初は摂食障害だった。既に俺がつるんでた時期に兆候はあった。何しろ食わない。食っても全て吐く。  そして統合失調症による幻聴幻覚を発症し、不審な言動や奇行が徐々に目立つようになった。親族会議が開かれ、結果カズヤはこの柊病院第六病棟に入れられた。以来カズヤは、柊病院の敷地から一歩も外に出ていない。両親も弟のシンヤも一切面会には来ず、シンヤに至ってはこれまで兄に向けられていた親族の寵愛を全身に受けて喜んでいるくらいだ。  あんな異常者は村雨家にはいらない、と言わんばかりの仕打ち。二十一世紀のこの時代に、だ。まったく、何が名家だと呆れる。  だが、カズヤの知能は衰えていない。 「話せ、よ」  カズヤがぼさぼさの黒髪を掻きながら言った。 「おまえ、ここでテレビ見られるのか?」 「ニュ、ニュースはよく見る」 「なら最近話題の髪切り魔って知ってるか?」 「知ってる」  耳たぶを引っ張りながらカズヤが答える。 「実は俺、今その髪切り魔を探してるんだ」  ほんの少し、カズヤの視線が上がった。 「お、おまえ一人でか? 違うだ、ろ」  俺は降参して両手を上げる。 「昔話したの、覚えてねえかな。小学校の時の……」 「莇良一」  俺は目を見開く。 「さ、再会出来たの、か。よ、良かったな」 「ああ、本当に良かった」 「で、そそその髪切り魔は捕まりそうな、のか?」 「おまえの意見を聞きたくてさ。アザミが言い出したんだ、おまえに話してみたらどうだってな。どっちみち俺も見舞いには来たかったし」 「は、犯行は、単純明快。でも違うんだろう、な。何か謎がある、んだ。だから俺の所に来た」  カズヤはそういうと突然立ち上がってのしのしと狭い室内を歩き回り始めた。こういう行為には慣れてるから、俺は気にせず話を進める。 「そう、謎があるんだ。被害者四人は殴られて髪を切られた後、身体のどこかに漢字で『虎』って印刷された紙を貼られてるんだよ。そして被害者四人は全員ロックが好きで、ネットをやっていた」  椅子に戻ったカズヤの息は上がっていた。ほんのちょっと歩いただけでこれだけ疲れるのか。 「虎、ね。ちょ、ちょっと考えるから、なんか別の話、しろよ」  これも慣れたものだった。カズヤの思考回路は昔から俺のような凡人には理解不能だし、今も分からない。俺ごときには分からないのだ。  俺は昨日のアザミから聞いた話を振ってみる。 「ビートルズの『Cry Baby Cry』っていう曲の出だしが……」 「し、新聞広告を見たジョン・レノンがそれ、を、もじっただけだ」 「知ってたのか」 「むむ昔、何かで、読んだ」  俺は少し驚く。以前のカズヤなら何の本の何ページの何行目かまで即答したはずなのに。 「『Cry baby cry, make your mother lie』にも出来た、って事、だ」 「何だって?」 「ぜ、全員虎か」  ほとんど聞こえないような小声で、カズヤが呟いた。 「じゃあどこかに穴があるはず、だ」 「穴?」 「虎穴に入らずんば……、あ、蟻さんだ!」  カズヤは突然叫んで居もしない蟻を踏みつけ始めた。 「蟻は死んだか?」 「穴か、巣、かもしれない、な。蛍、どこかにきっとある。それを探さないと、虎だらけになる」 「虎だらけって……犠牲者が増えるって事か?」  俺は思わず身を乗り出していた。 「ひ、被害者のプロフィール、を、教えてくれ」  椅子に戻り今度は右手の親指を噛み始めたカズヤがそう言ったので、俺は杏里から順に、岡本陽子、有泉美和、近藤について説明した。 「ぜ、全員、ロック好き、か」 「そう、サングレールって分かるか? 四人ともそのSNSをやってるんだ」 「SNSは穴じゃない」  カズヤの視線がせわしなく動く。かちかちと爪を噛む。やがて血が滲む。 「カズヤ、噛むのやめろ。血が出てる」 「お、俺に言えるのは」  ゆらりと立ち上がったカズヤは、ゆっくりと俺の両肩に手を置いた。 「嘘つきが居るって事、だ。大嘘つきだ。でででも、嘘が上手い奴は本当に上手い。ア、アメリカの脱獄王、スティーヴン・ラッセル、って、知ってるか?」 「いや、知らない」  俺はカズヤの両腕を払わずそのまま答えた。 「あ、IQ170の、天才詐欺師、で、終身刑になって、映画化もされてる」  そこで俺は思い出した。 「ジム・キャリーとユアン・マクレガーが出てるやつか?」  カズヤはこくこくと頷いた。  映画のタイトルは忘れたが、以前付き合っていた子がユアン・マクレガーのファンで、一緒に見た記憶がある。確かコミカルなゲイムービーだったはずだ。 「『嘘つきは存在するか?』 これは面白い命題、だ、よ。詐欺師で大嘘つき、の、スティーヴン・ラッセル、は、ええ映画の中で、こんな事を、言われる。『キミは人に嘘をついて、自分にも嘘をついている。嘘で塗り固められた人間は、果たして存在していると言えるのか?』」  嘘で塗り固められた人物、それは確かに虚像で、『存在』しているとは言えないかもしれない。 「言いたい事は分かるけど、それと髪切り魔、何か関係があるのか?」 「犯人が大嘘つきだ、って事、だ。犯人は、か、柿沼杏里と岡本陽子と有泉美和と近藤秀行を、殴り、も、毛髪を切り取って逃げた事を、隠している。嘘つき、だ」 「そりゃ、その通りだけど……」 「犯人はもっと、嘘を、ついてるはずだ。アリバイ、とか、な。大嘘つきは、きっと、どこからが嘘で、どこまでが自分か、わ、分からなくなる。きょ、虚像だよ、蛍。じ、自分にも嘘をついてるんだから、恐らくどこかが破綻、してるはずだ」  俺はしばしカズヤの言う『虚像』について考えてみる。自分を偽っている、自分に嘘をついている、自分の本当の感情を押し殺している? 「カズヤ、大嘘つきは……」  俺が顔を上げると、カズヤは不思議そうな顔で俺を見詰めていた。 「あ、ああ、蛍か。そうだ、面会に来たんだ」 「そうだよ、久しぶり。嘘つきの話、分かるか?」 「うん」 「嘘つきは、自分の感情を押し殺したりするのかな」 「そう、だな。嘘の為に、ふ、不本意な言動が、ある、かも」  そこでカズヤが唐突に言う。 「あ、髪切り魔は嘘つきだ。でも髪切り魔ってのも、嘘だ、きっと」  俺は一瞬ぽかんとする。 「どういう意味だ?」 「『髪切り魔』なんて名称で、せ、先入観を持っちゃダメだ、蛍。ははは犯人は、先ず被害者を殴って、る。髪切りが、オプション、ないし、目眩まし、という可能性、は、考えた、か?」  俺は愕然とカズヤの濁った瞳を見詰める。 「で、でも被害者は死に至るような殴られ方はしてないぞ。岡本陽子は別だけど……、え?」  俺は当たり前の可能性に気付く。 「まさか犯人の狙いは岡本陽子だけで、他の三人は目眩ましだとでも?」 「か、かか可能性の問題、だよ。あらゆる可能性を考えないと、きっとこの事件は、お、おまえの手には、おえない。あと穴、或いは巣を探すんだ。きっとどこかにある。こ、こけつ。き、きっとそこには、他にも虎が居る」 「一体何を根拠に?」  俺が必死に問うと、カズヤは真上を向いて目を閉じた。 「く、悔しいな。昔は覚えてたのに、今、は、思い出せ、ない」 「それは……、仕方ない事だろ」 「で、でも俺には」  カズヤは真上を向いたまま言った。 「これが、なな何か、儀式的な犯行に、思える。き、既知の新世界、勝手知ったる異世界へ、ヨウコソ!」  俺は眉を寄せ首を捻る。既知の、新世界? これはカズヤの妄言か? カズヤが頭を起こす。その眼はやっぱり濁って見えた。 「蛍」 「何だ?」 「『Cry Baby Cry』の、きょ、曲の終わりに、ポール・マッカートニー、の即興が入って、るの、覚えてる、か?」  俺はまた脳内で「Cry Baby Cry」を再生する。確かジョンが歌い終えた後、ポールの美しい歌声が唐突に流れ、フェイドアウトしていく、という展開だ。 「それがどうかしたか?」 「『Can you take me back, where I came from, can you take me back』、す、凄くきれいな、旋律だ」  カズヤは裏声でそう歌い、言った。 「『僕を連れ戻してくれないか、僕が元居た場所へ』。大体そんな、意味、だ」  それを聞いた時、俺は何故かアザミの事を思い出した。  僕を連れ戻してくれないか、僕が元居た場所へ。 「村雨さん」  面会室のドアが開き、女性看護師が笑顔で入ってきた。 「そろそろお薬の時間ですよ。申し訳ありませんが、面会はこの辺で……」 「あ、すみません」  俺は慌てて立ち上がり、バッグを手に取った。  机に突っ伏していたカズヤは、看護師に起こされ、立ち上がった。 「ほら、村雨さん。こっちですよ」 「……分かってるよ、うるせぇな」 「カズヤ」  俺は猫背の後ろ姿に声をかける。 「ありがとう」 「何が?」  カズヤは心底不思議そうな顔をしたまま面会室を出て行った。 page: 13 第13話 13.  籠原睦実は約束の十分前には渋谷ハチ公前に居た。 「出かけるの?」  自宅を出る際、意外そうな様子で母親は言った。新聞を読んでいた父親も、少なからず驚いたようだった。 「どこに行くの?」 「渋谷」 「誰と会うの?」 「友達」 「学校のお友達?」 「私の友達なんだからほっといてよ」  そう言い捨てて、睦実は家を出た。  らいおんからの連絡によると、結局今朝まであさことミゲルとは連絡が取れず、参加者はらいおんと睦実とみーこのみとなった。  土曜の昼、渋谷駅前は大混雑していた。  三人は皆同じトバラTシャツを目印にしているが、念のため電話でやりとりしつつ合流する、という算段だった。  睦実は自分のごわごわした髪と化粧、スタイルを、今になって気にし始めた。アバターはあんなに可愛いのに、実物を見てらいおんやみーこが引いてしまわないか、不安になった。  ほどなくして携帯が鳴る。 『あ、もしもし、むっちゃん?』 「はい、らいおんさん、今どの辺居ます?」 『今改札出たところ。ハチ公に向かってる。むっちゃんは?』 「もうハチ公前に居ます」 『分かった、すぐ行くね。みーちゃんももうすぐ来るから』  電話を切って改札方面に目を遣ると、グレーのトバラTシャツにブラックデニム、茶髪を腰まで垂らしたスリムな女性が見えた。あの女性がらいおんだろうか? 確かに彼女のアバターは茶髪だ。  と、別の方面から黒髪で色白の少女がその女性に飛び付いた。彼女も同じトバラTを着ている。  やがて二人は睦実の元へやって来る。睦実は軽い動悸を覚えつつも笑顔を浮かべた。 「むっちゃん、ですか?」  茶髪の女性が声をかけてきた。 「そうです。らいおんさん、と、みーちゃん?」 「そうですー、はじめまして!」 「私がみーこでーす!」  三人はキャッキャと出会いを祝福した。  らいおんはモデルのような体型で、歯並びの悪ささえ目をつむれば完璧な美人だった。みーこはシフォンのスカートから細い足を伸ばし、ヒールの高い靴を履いていた。顔立ちは常人並みだったが、少しばかり化粧が濃く、つけまつげが今にも落ちそうだった。  三人は人の海に流されながらも、らいおんの案内で予約しているレストランへ向かった。 「五人分予約したんだけどね〜」  らいおんが残念そうに言う。 「あさちゃんとミゲルさんはまだ連絡つかないんですか?」 「うん、何度もメモとか送ったんだけどねぇ」 「あの、らいおんさんとみーちゃんは元旦に会ったんでしたっけ?」 「そうそう、今回が二回目。一応おかよさんとコンドルさんにもオフ会やるよってメールしたんだけど、レスないの」 「そうなんですか」  聞けば元旦も同じ店でライブの前に食事や会話を楽しんだらしい。参加したのは、らいおん、みーこ、あさこ、コンドル、おかよの五人。  駅から少し歩き、人通りの少ない道に出た。 「この先のイタリアンレストラン。小さいけど静かで、落ち着いて長居出来るお店なんだ」  らいおんが笑顔で進行方向を指さす。 「私、元旦にらいおんさん達と来てから、ライブ前にこの店で腹ごしらえする事にしてるの。むっちゃんもきっと気に入るよ」  みーこが笑う。  辿り着いたのは外壁を真っ黒に塗った、マッチ箱のような店だった。黒い壁に英語で何か書いてあり、店先にはランチメニューが記された地味な黒板があった。 「ここだよ。『フラマ』っていう名前」  言いながら、らいおんが正面のドアを開く。みーこと睦実も後に続く。  成る程、らいおんの言う通り店内はかなり狭かったが、客も少なくインテリアも凝っていて、落ち着いた雰囲気の店だった。正面のカウンターに居た店員が出て来て、窓際の予約席に落ち着く。睦実達の他に客は一人だけで、大学生くらいの男子がコーヒー片手にノートを広げていた。 「急に人数変更しちゃってすみませんでした。最初五人って言ってたのに」 「いえいえ、問題ないですよ。お決まりになったら呼んで下さい」  愛想の良い女性店員はそう言って去って行った。  三人してメニューとにらめっこし、これも良いがあれも捨てがたい、と考え込んだ。現実世界で他人とこんな風に時間を過ごすのが久々だった睦実は、とてつもない高揚感を覚えた。  オーダーを終えると、みーこがバッグからビニール袋を取り出した。 「むっちゃん、これ。この前言ってたインタールードのバックナンバー」 「え?」  睦実が袋を開くと、インディーズバンドの特集記事が載ったインタールードが一冊と、レコード屋等で無料配布されていた古いフリーペーパーが数冊入っていた。睦実がトバラを知る前の物だ。 「え、みーちゃん、これ貰っていいの?」 「いいのいいの、私そのインタールード二冊買っちゃったから」 「うわー! 北条さん若い! ありがとう、ホントに嬉しい」 「私もむっちゃんに何かお土産を持ってくるんだったな〜」 「いえいえ! お気持ちだけで充分です!」  それから三人はトバラや他のバンドの話で盛り上がった。  あの曲が好きだ、あのアレンジが好きだ、あのシングルはイマイチだった、あのバンドの新譜が良い、あのバンドはもう落ち目だ、そんな話題だけで気付いたら二時間が経過していた。 「じゃあそろそろカラオケ行こうか」  らいおんがそう言うと、三人は会計を割り勘にして店を後にした。  予定通りセンター街のカラオケ屋に入り、二時間大声で歌い続けた。らいおんは決して歌が上手いとは言えなかったが、みーこはカラオケ慣れしているのか、なかなか声が通る。睦実はカラオケなど中学以来行っておらず、そのシステムの変化に最初は戸惑ったが、すぐに慣れてトバラの曲を熱唱した。 「あっという間でしたね〜」  会計を済ませて外に出ると、冷たい風が吹いていた。上着を羽織っても肌寒いくらいだった。三人は急ぎ足で渋谷駅に向かう。 「寒いから早く帰ろ。そんでまたフロートしようっと」  笑いながららいおんが言った。 「そうですね、どっちみち後で会えますね」  駅に到着し、改札前で解散する事にした。 「二人に会えて良かったよ。じゃあまた後で、フロートでね!」 「私も超楽しかったです! では後ほど!」  睦実は二人に手を振りながら改札をくぐった。  帰路、睦実は考えた。ネットをろくにやらず何も知らない中高年はインターネット上の友情を軽視するが、こうして現実世界で会えば立派な友人ではないか。出会いがネットなだけであって、友情は友情だ。やはり趣味の合う友達が居るのは良い。年齢や性別や身分に関係なく、こうした輪が広がるのは喜ばしい事だ。トバラのおかげだ、と睦実は思った。トバラが居なければ、彼らには出会えなかった。自分はきっとその意味でも、彼らに感謝すべきなのだろう、と思った。 Twitterで共有 Facebookで共有 はてなブックマークでブックマーク 次のエピソード 第2話